祇王寺 (右京区嵯峨鳥居本小坂)

京都・寺社

道標『平家物語』や『源平盛衰記』の中で語られる白拍子 祇王が隠棲した寺「祇王寺」へは、清凉寺 (嵯峨釈迦堂) の西門から愛宕神社に向かう愛宕街道を西方へ7, 8分歩く。道が右に曲がっていく辺りに参道を示す道標が建つ。
大きなお屋敷の多い静かな住宅街の奥にあり、緩やかな坂道の参道は青モミジに覆われて山の麓に来たと感じる。石段の右手に山門の茅葺き屋根が見えるが、参拝用入り口は石段を上りきった所。両側が穂垣の入り口には、びっしり参拝用入り口と苔が生えた趣ある屋根。
  真言宗大覚寺派の尼寺。山号は高松山。院号は往生院。本尊は大日如来。

【歴 史】
平安末期の頃、法然の門弟 良鎮 (りょうちん) 開創の「往生院」に始まるという。かつては山上山下に広い寺域があったが、その後次第に荒廃し、ささやかな尼寺として残った。
また平清盛の寵愛を受けていた白拍子 祇王が、清盛の心変わりによって都を追われることになり、出家してこの地に母、妹と共に庵を結んだことから「祇王寺」とも呼ばれるようになった。
明治初期 「往生院」は廃寺となり荒れ果てる。
明治28 (1895) 年 「往生院」の墓と仏像を管理していた旧地頭 大覚寺門跡の楠玉諦 (くすのきぎょくたい) 師が、寺の再建を計画していたところ、第三代京都府知事 北垣国道に嵯峨の別荘一棟を寄進され、その茶室を本堂として再興。以後は大覚寺の境外塔頭となり、その名も『平家物語』そして祇王ゆかりの寺として「祇王寺」となった。
昭和10 (1935) 年 明治後半から昭和初期にかけて再び無住となり寂れた「祇王寺」を、高岡智照こと智照尼 (元東京新橋の名物芸妓 照葉) が庵主として復興に着手。

【本堂(草庵)】吉野窓
元お茶室であったという「本堂」(と言うよりむしろ「草庵」と呼ぶのが相応しい) は、萱葺屋根も苔むして、こじんまりと密やかに佇んでいる。上り口に続く仏間の仏壇には、本尊大日如来を中心として、祇王、祇女、母刀自、仏御前の木像が安置されている。そして柱の陰に隠れるようにして平清盛像も。祇王、祇女の像は鎌倉末期の作と伝わる。室内にはさりげなく智照尼の句の短冊も飾られている。
奥の控えの間には、「吉野窓」と呼ばれる大きな丸窓がある。障子が開けられていると、庭の樹々の葉が日差しを受けて煌めくのがきれいだ。

また本堂入り口に置かれた少し変わった形の水琴窟は、とても涼やかな音を響かせ、心が和む。

【庭園(苔庭)】
本堂前の庭園は、中央の苔庭を囲むように参道が造られている。モミジの樹々の下に敷かれた緑の絨毯のような苔のある景色の中に、慎ましやかな草庵が見え隠れするのはなんとも美しい。また緑一色の苔庭にアクセントを持たせるかのように、色々な山野草も植栽され細やかな配慮が感じられる。草庵を囲むかのような竹林の葉音が、時折の風にサラサラと聞こえてくるのに耳を澄ませていると普段の喧騒を忘れてしまう。そして本堂近くに設えられた「苔棚」! 様々な種類の苔が鉢植えにされて、その名を知ることができる。最近苔にハマっている私は興味津々。山門?

風情ある蹲まだ大学生だった頃に訪れた時には、ここまで苔の多いお庭ではなかった。それがまさに「苔庭」の名に似つかわしい様子になっていて … 時の流れを感じることしきり。

 

 

【宝篋印塔】
本堂を出て出口に向かうと、奥まった所に古い宝篋印塔が祀られている。左側の大きな塔は、祇王、祇女、刀自の墓。その右側にある小ぶりな塔は、平清盛の供養塔。そう、ここは尼寺。

   まつられて 百敷き春や 祇王祇女   智照尼

[祇王の物語]
 " 平氏全盛の頃、都に祇王・祇女という有名な白拍子の姉妹がいた。平清盛は姉の祇王を寵愛し、そのおかげで祇女や母親 刀自 (とじ) も何不自由無く暮らせていた。ところがある時、仏御前 (ほとけごぜん) という若い白拍子が清盛の屋敷を訪れ、舞を見て欲しいと申し出る。祇王に夢中の清盛は門前払いをしようとするが、祇王の取りなしにより仏御前は歌い舞うことができた。
 仏御前の声は美しく舞も上手、さらに見目麗しいとあって、清盛の心はすっかり祇王から仏御前へと移ってしまい、祇王達は屋敷を追い出されてしまうことに。屋敷を去る時、祇王は襖に次のような歌を書き残した。

 萌え出づるも枯るるも同じ野辺の草 いづれか秋に逢はで果つべき

 その後、清盛の心無い振る舞いに祇王は自害も考えるが、母親に諭されて思いとどまり、三人は嵯峨野の奥の山里に草庵をしつらえ、尼となって引きこもった。その時、祇王21歳、祇女19歳、母は45歳。三人がひたすら後生を願って念仏を唱える日々を送っていたある夜、竹の編戸を叩く音が聞こえる。「こんな夜更けに誰が?」と恐る恐る編戸を開けると、そこにはなんと仏御前の姿。
 「ご恩ある祇王様の不幸を思うにつけ、我が身もいつか同じ目にと案じられ、儚いこの世の楽しみに耽るより後生を願いたいと、今朝館を忍んで出て参りました」と語り仏御前が被っていた衣を払うと、髪を下ろした尼の姿。さらに仏御前は「もし許していただけるならば、ご一緒にこの地で私も念仏して過ごしたいと思います」と願い出る。祇王は、17歳という若さで深く浄土を願う仏御前の志に心を動かされてその願いを受け入れる。本堂前の水琴窟
 その後、四人の尼僧は朝夕念仏を唱えて暮らし、みな極楽往生の本懐を遂げたという。"

祇王の物語を思い、智照尼の生涯に思いを馳せながら静かな草庵にいると、「諸行無常」について深く考えてしまう。… そう、紅葉の頃にまた来よう。

 人の世の 無常を知るや 苔の庭 水琴窟の 音沁み渡る  (畦の花)

<参考資料>
・ 祇王寺 参拝の栞, HP        ・ 『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 「挿絵とあらすじで楽しむお伽草子 第7話 祇王 」   (京都大学貴重資料デジタルアーカイブ)