滝口寺 (たきぐちでら) (右京区嵯峨亀山町)

京都・寺社

『平家物語』の滝口入道と横笛の悲恋にまつわる寺として知られる「滝口寺 (たきぐちでら)」は、奥嵯峨の小倉山裾にひっそりと在る。清凉寺西門から愛宕街道を西に7, 8分歩いて行くと、「滝口寺→」の案内の下に、「新田公首冢碑道」「往生院 ぎわうじ」の道標が見える。道標のように、滝口寺と祇王寺は隣り合うように建っている。

【歴 史】
滝口寺 山門平安末期の頃、法然の門弟 念仏房がこの地に念仏道場「往生院」を創建。当時は広い寺域に多くの坊があったという。
その後、応仁・文明の乱や禁門の変など度重なる戦乱により衰退。
明治維新後、廃仏毀釈により廃寺となるが、昭和初期に「往生院」は「祇王寺」として、そして「往生院」の子院「三宝寺」が「滝口寺」として再興される。

 

《滝口寺の二つの悲話》
I 【横笛説話と滝口入道】滝口入道と尼僧となった横笛の木像
『平家物語』巻第十の「横笛」は「高野に年来知り給へる聖あり…」と始まり、斎藤滝口時頼と建礼門院の雑仕 横笛の恋にまつわる説話を語る。

「時は平家全盛の頃。平重盛 (平清盛の長男, 小松殿) の侍に斎藤時頼という者がおり、内裏警護の武士の詰所「滝口」の武士であったところから「斎藤滝口時頼」と呼ばれていた。
ある時時頼は、建礼門院に雑仕女として仕えていた横笛を一目見て、その美しさに心奪われてしまう。思い募る時頼は、父 茂頼に横笛を妻に迎えたいと顧い出るが、息子の出世に心くだ<父親は、身分の低い女など出世の役に立たないと反対し諌める。思い余った時頼は、19歳で出家し、嵯峨の往生院で仏道修行に入ってしまう。
この事を伝え聞いた横笛は、「私を捨てるのはよい。しかしたとえ世を捨てても、どうしてそれを知らせてくださらないのか」と思いつめ、時頼を探して嵯峨に向かう。時は二月の十日余りのこと。
往生院と聞いてはいたが、どこの僧坊ともわからず、横笛はあちらこちら尋ね歩いた。と、ある僧坊から滝口入道のそれと思われる念仏誦経の声が聞こえてくる。横笛は供の女に「もう一度、僧となられたお姿を拝見したい」と伝えさせるが、滝口入道は襖の隙間から垣間見た横笛の様子を気の毒と思いながらも、人を出して彼女を追い返してしまう。横笛歌石
時頼は「もしまた横笛が慕ってくることあれば、仏道修行に専念できないかもしれない」と考え、高野山の清浄心院に移り住んでしまう。その後、横笛も出家したと知った滝口入道は、一首の歌を送った。
  そるまでは 恨みしかども 梓弓 まことの道に いるぞうれしき
横笛がその返しに送ったのは、
  そるとても 何か恨みむ 梓弓 引きとどむべき 心ならねば
しかしながら思い募った横笛は、間も無くして奈良の法華寺で亡くなってしまう。このことを伝え聞いた滝口入道は、ますます修行に専念したので、父親も親不孝を許し、やがて「高野の聖」と称されるようになった。」

 [小説 『瀧口入道』]佐佐木信綱の揮毫による扁額
明治に入り廃寺となった「往生院三宝寺」が再び日の目をみるきっかけとなったのは、高山樗牛 (たかやま ちょぎゅう) の小説『瀧口入道』ではないだろうか。
明治26 (1893) 年 東京帝国大学文科大学哲学科に入学したばかりの高山樗牛は、『平家物語』の滝口入道と横笛の話を題材に『瀧口入道』を執筆し、読売新聞の歴史小説に応募。明治27 (1894) 年 1等賞に該当する作品が無かったため、2等当選の『瀧口入道』が33回にわたって新聞連載されることとなる。
明治29 (1896) 年 新聞連載で人気を呼んだ『瀧口入道』は、春陽堂から刊行される。

 [映画 『瀧口入道 夢の恋塚』]
多くの読者を得た小説『瀧口入道』は、本格的な芸術映画が日本でも隆盛を見せ始めた大正時代に映画化されることに。
大正12 (1923) 年 『瀧口入道』が『瀧口入道 夢の恋塚』のタイトルで映画化。配役は斎藤瀧口時頼に阪東妻三郎、横笛は環歌子。監督 後藤秋声で、マキノ映画製作所 (等持院撮影所) が製作。この時阪東妻三郎は、まだマキノ映画製作所の大部屋俳優だったが、以後映画界で頭角を現していく。

本堂へ向かう参道の途中に「横笛歌石」という苔むした岩がある。「横笛が指を切った血で歌を書いて帰った石」と説明されている。傍には「瀧口と横笛 歌問答旧跡 三寶寺歌石」の石柱。「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に 我を導け」と刻まれている。

II【新田義貞と勾当内侍】
新田義貞の首塚滝口寺の拝観受付すぐ横、数基の石灯籠に見守られるようにして「新田義貞の首塚」がある。そしてその傍には、義貞の妻の一人 勾当内侍 (こうとうのないし) の供養塔がひっそりと建っている。なぜこの地に?

南北朝時代の公武抗争を描いた軍記物語『太平記』の中で、二人の出会いと別れは次のように語られる。勾当内侍供養塔

 

「上野国 (群馬県) 新田荘を本拠地とする新田一族の惣領 新田義貞 (1301-38) は、元弘の乱(1331〜) では、初め幕府軍の一員として楠木正成を千早城に攻めていた。しかし元弘3, 正慶2 (1333) 年、護良親王の令旨を得ると、今度は討幕の兵を挙げて鎌倉幕府を滅ぼし上洛。後醍醐天皇の建武の新政で重用されることになる。
ところで「勾当内侍」とは、本来は宮中で天皇に仕える掌侍 (ないしのじょう, 4人の女官) の中の第一位の者を指し、「長橋の局」とも称される。『太平記』での「勾当内侍」の本名は不明だが、藤原経伊の娘とも言われる。「天下第一の美人」とされる勾当内侍に一目惚れをした新田義貞は、後醍醐天皇の計らいにより彼女と親密な関係となる。
だが平穏な日々も束の間。新政権から離反した足利尊氏追討のため、義貞は楠木正成や北畠顕家らととも再び戦場へ。一旦は九州に都落ちした尊氏軍だが、延元1, 建武3 (1336) 年には再挙し上洛を狙う。後醍醐天皇方は兵庫湊川の戦いで楠木正成らを失い、ついに京都を放棄。義貞は北陸に移って越前金ヶ崎城を拠点に再起を図るが、越前藤島 (福井市) での斯波高経軍との合戦で戦死。
その頃、越前の義貞から迎えを受けた勾当内侍は、やっと夜が明けた心地で北陸への旅の途上。だが杣山 (そまやま, 福井県南条郡南越前町) で新田義貞の戦死を知り、泣く泣く都に引き返す。その都で義貞の首が獄門の木に懸けられているのを目にした勾当内侍は、悲しみのあまりその場に泣き崩れてしまう。その後、内侍は黒髪を剃りおろして比丘尼となり、嵯峨の奥の往生院あたりで念仏勤行に明け暮れた。」
「滝口寺」の「新田義貞の首塚」は、獄門の木に晒されていた義貞の首を、勾当内侍が密かに持ち出して埋め、供養した場所と伝わる。本堂から見た前庭

『太平記』では「勾当内侍」は、その美貌によって節目節目で義貞の判断を鈍らせ、結果として義貞の滅亡の遠因を作った所謂『傾国の女性』として描かれているが、これは軍記文学の常套手段ではないだろうか。江戸後期から明治にかけて刊行された伝記集『前賢故実』では、新田義貞が勾当内侍との別れを惜しんだために出兵する時期を逃したというエピソードは書かれておらず、むしろ最愛の人と悲劇的な別離をした「儚い女性」という印象がある。また、そもそも勾当内侍は実在しない人物であるという説もある。

本当のところは謎のままだが、こうした物語が人々の心を捉えて離さないのは事実で、「滝口寺」が今ここにあるのもそのおかげではないだろうか。「勾当内侍の供養塔」には「昭和七年五月作曲記念 杵屋佐吉一門 佐門会建之 賛助小林吉明4世」と刻まれている。長唄の四世杵屋佐吉が、昭和初期に平家物語・横笛の旧跡として茅葺の慎ましやかな堂を建てたのが、「往生院 三宝寺」復興の始まりだったようだ。そして後に歌人の佐佐木信綱が、高山樗牛の『瀧口入道』に因んで新たに『滝口寺』と命名したという。

【本 堂】本堂
樹々の間を縫うようにして細い石段を上りきると、ポッと開けた空間に茅葺屋根の小さな一宇がある。本堂というが何とも鄙びた佇まい。ずいぶん以前に訪れた時には、本堂前の庭木はまだ小ぶりで本堂内がよく見えたが、今は屋根を覆うように茂っている。堂内には、三宝寺の遺物である玉眼入りの滝口入道と尼僧となった横笛の木像が並んで安置されている。鎌倉後期の作という。また佐佐木信綱の揮毫による「滝口寺」の扁額が飾られている。
本堂前庭の奥、竹藪の中に建つ十三重石塔は、滝口入道と平家一門の供養塔。

【小松堂】小松堂
本堂から少し離れた竹林の中に建つ祠は、「小松堂」と称される。滝口入道 (斎藤時頼) の主君である平重盛が祀られている。平重盛が、六波羅小松第に居を構えていたことから、小松殿あるいは小松内大臣と呼ばれていたことに因んでの名だろう。

隣接する「祇王寺」の心地良く手入れの行き届いた境内からこの「滝口寺」に足を運ぶと、その雰囲気は大きく様変わりする。… そう自然の力に圧倒されそうな気持ちになる。ただ、滝口入道が庵を結んだ頃は、もっと寂しい山中だったのではないかと古に想いを馳せてしまう。

《Note》十三重石塔
[滝口入道と横笛 後日譚]
 高野山 清浄心院谷の入り口にあった大圓院に修行の場を移した滝口入道は、やがて大圓院第八世住職となり、その名も「阿浄」と称するまでになった。その大圓院には『横笛縁起本』と題する物語が残っている。

「ある春の日、阿浄は庭先の古梅の枝で、一羽の鶯が彼をじっと見つめているのに気づいた。訝しく思った阿浄が窓から身を乗り出そうとしたその瞬間、鶯は空に舞い上がって2、3度羽ばたきを繰り返すとそのまま井戸に落ちてしまった。その姿はまるで病み衰えた横笛その人のように見え、「横笛!」と思わず叫んで庭に飛び出した阿浄。井戸からその鶯の亡骸を掬い上げた阿浄は、阿弥陀如来像を彫ってその胎内に亡骸を収め、寺の本尊とした。」
今も大圓院には「鶯の井戸」や「鶯梅」といった横笛ゆかりの旧蹟がある。

 また横笛が尼僧として最後の日々を過ごしたという奈良の法華寺には「横笛堂」という小さなお堂がある。かつては堂内に、横笛本人が造像したと伝わる「横笛像」が安置されていたが、今は本堂に移されている。

    思ひ人 さがしきたりて 小倉山 柴の戸かたく 氷雨哀しも (畦の花)

<参考資料>
 ・滝口寺 拝観の栞     ・Web版 『松岡正剛の千夜千冊』 1689夜     ・日本映画情報システム  文化庁
・『女英雄展 : 名を残した女たち』  Web版   立命館大学アート・リサーチセンター, 2017
・『京都・嵯峨野における景色の持続と変容』 樋口 忠彦, 山口 敬太 著 (日文研叢書 41, 2007, p61-82)
・高野山別格本山 大圓院 公式HP     ・法華寺門跡 公式HP