落柿舎 (右京区嵯峨小倉山緋明神町)

史跡

嵐山の観光スポット「竹林の小径」を北に進みJR山陰本線 (嵯峨野線) の踏切を過ぎると、間もなく静かな住宅街に出る。小倉山がよく見える田園の北側に、小さな茅葺の屋根の庵が見える。元禄の俳人 向井去来が住した「落柿舎 (らくししゃ)」だ。

門の前に立つと正面に庵があり、庵の入り口横には蓑笠が掛けられている。これは去来在住の頃には、蓑笠があれば在庵、なければ外出中の印だったが、今は落柿舎の象徴となっている。敷地の周りが生垣に囲われていて中が見通せなお庭から見た本庵いので、「本当に小さな庵」という印象だったが、門を潜るとその印象が間違いだったことに気付く。
正面にある「本庵」の南から西側にかけては広い庭があり、「落柿舎」の名の由来となった柿の木があちこちに植えられている。中でも本庵前の木は、樹齢300年と言われており、そのすぐ近くには安永元 (1772) 年に井上重厚が建立した去来の古い句碑が柿の木を見上げるかのように建つ。
   柿主や 梢はちかき あらし山

土間茅葺屋根を見上げて「本庵」の玄関に足を踏み入れると、右手には “おくどさん" のある小さな土間。見上げると茅葺屋根の造作がよく見えるように、新たな工夫がされている。左手には南側に縁の付いた四畳半の居室。西には丸窓があり、庭の草木がよく見える。奥にも居室があるようだ。縁側でふっと上を見ると、「落柿舎制札」と書かれた木札。芭蕉が即興で作った文言のようだが、読んでいると思わずクスッと笑える。気心の知れた俳人達の、なんともくつろいで愉しげな様子が連想されて微笑ましい。

【「落柿舎」のエピソード】
別宅の庭には40本の柿の木があった。ある時都から来た老商人が柿の実がなっているのを見て、一貫文でそれを買い求め、去来もその代金を受け取った。その夜のこと。「ころころと屋根はしる音、ひしひしと庭につぶるる声、よすがら落ちもやまず」という次第で、一夜にして全ての柿が落ちてしまった。翌朝やって来た商人は「長い間商いをしてきましたが、こんなことは初めてです」と言って先の代金を返してくれるように頼む。商人を不憫に思った去来は、代金全額を返し、帰る商人に友人宛の手紙を託した。そこには「落柿舎の去来」「落柿舎制札」と記されてあったという。

現在 (公財) 落柿舎保存会により保存・運営されている「落柿舎」の庭は、四季折々の俳句の季語となる草花が所狭しと植えられていて、珍しい花に出会えるのも楽しい。その中に去来ゆかりの俳人達の句碑が点在し、ひとつひとつ眺めているとつい時間が経つのを忘れてしまう。芭蕉の句碑に刻まれているのは、『嵯峨日記』最尾の句。
   五月雨や 色紙へぎたる 壁の跡

【向井 去来】芭蕉句碑
向井去来 (1651-1704) は儒医の二男として肥前国 (長崎) に生まれる。萬治元 (1658) 年、一家は京都に移り住む。去来は武芸に秀でていたが、若くして浪人となり、貞享年間 (1684-88) に其角を介して松尾芭蕉に入門するとともに、貞享2 (1685) 年には嵯峨に別宅を構える。
元禄2 (1689) 年3月、芭蕉は弟子の曾良を伴って『おくのほそ道』の旅に出る。同年秋頃より去来は、別宅を「落柿舎」と称するようになる。12月には芭蕉が初めて「落柿舎」を訪れ、以後元禄4 (1691) 年と元禄7 (1694) 年にも再訪している。特に2度目の滞在時には、芭蕉は『嵯峨日記』を草し、さらに京都在住の野沢凡兆宅に移って去来・凡兆とともに俳諧の古今集とも言われる『猿蓑』の編纂に取り組んだ。
去来の篤実な人柄は、芭蕉から絶大な信頼を得て「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と称されたと言う。芭蕉没後は、蕉風俳論の根本資料として高く評価されている『去来抄』を著し、宝永元 (1704) 年に洛東聖護院近くの寓居にて病没。
蕉門十哲の一人に挙げられる。

去来没後、落柿舎は、明和 7 (1770) 年に俳人 井上重厚 (嵯峨出身で、去来の親族とされる) によって再建された。その後廃れてしまうが、明治初期に復興される。
昭和37 (1962) 年、「落柿舎」の永久保存と俳句・俳諧の興隆発展のために、有志により「公益財団法人 落柿舎保存会」を発足。平成23 (2011) 年からは通年拝観ができるようになった。また「本庵」を模して造られた落柿舎前から嵐山・小倉山を望む「次庵」は、俳句会やお茶会などで利用することもできる。

   凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり  虚子

<参考資料>
 ・落柿舎 HP      ・季刊誌 『落柿舎』242号, 落柿舎保存会