有智子内親王墓 (右京区嵯峨小倉山緋明神町)
嵯峨小倉山西麓「落柿舎」の西に隣接して、「嵯峨天皇皇女 有智子内親王墓」がひっそりと木の間に隠れるようにある。
第52代嵯峨天皇の第8皇女 (第9あるいは第2皇女という説もあり) である「有智子(うちこ (うちし)) 内親王」は、大同2 (807) 年に誕生。生母は天武天皇の玄孫にあたる交野女王 (かたの の じょおう)。弘仁元 (810)年、嵯峨天皇は勅祭である『賀茂祭』に、伊勢神宮の斎宮制に準じた斎院 (斎王) を奉じることを決め、その初代賀茂斎院に卜定されたのがまだ数え年4歳の有智子内親王だった。この決定は、その直前に起きた朝廷内の政変「薬子の変」が契機となり、政権と都の安寧を祈願するためだったとも言われる。
弘仁14 (823) 年2月、嵯峨天皇が斎院に行幸して花宴を催す。そこで天皇は供の臣下達に「春日山荘」の詩を賦させたが、17歳になった内親王も七言律詩を詠んで嵯峨天皇を大いに感嘆させた。そして内親王には三品が、生母の交野女王には従五位が授けられたという。
天長8 (831) 年12月、25歳で病により斎院を退下し、以後は嵯峨西荘に住まう。承和14 (847) 年、41歳で薨去。遺言により薄葬とされた。
後世、有智子内親王の墳墓の上には祠が建てられ「姫明神」として祀られたようだ。これが時の流れの中で訛伝して「緋裳明神」となり、檀林皇后の「緋の袴」を埋めた場所と言われるようになった。ところが、明治期に「山城国葛野郡班田図」(山城国嵯峨庄条里図)の断片が東寺文書から発見され、そこに「宇智内親王御墓」と記されていたことから有智子内親王の墓であることが判明したとのこと。
また江戸時代後期に刊行された『拾遺都名所図会』(巻之三) に記されている「落柿舎」の項では、「小倉山下緋の社のうしろ山本町にあり」と紹介され、「落柿舎」と内親王のお墓が隣り合っていたことがわかる。
現在の地名「緋明神町」には、平安初期にまで遡る歴史が隠されていたのだ。
日本史上数少ない女性漢詩人の一人である有智子内親王の作品は、勅撰漢詩集『経国集』や『雑言奉和』に収められている。
春日山莊 <有智子内親王>
寂寂幽庄水樹裏 仙輿一降一池塘 栖林孤鳥識春澤 隠澗寒花見日光
泉聲近報初雷響 山色高晴暮雨行 從此更知恩顧渥 生涯何以答穹蒼
<参考資料>
・『前賢故実』巻第三 (国立国会図書館デジタルコレクション)
・『有智子内親王の生涯と作品』所 京子 (聖徳学園女子短期大学紀要 12, 1986,.3 岐阜聖徳学園大学 )
・関西吟詩文化協会 HP
・賀茂別雷神社 (上賀茂神社) 公式HP 「賀茂祭 (葵祭) 」
・Web版『神殿大観』安藤希章著
・『拾遺都名所図会』巻之三 (国際日本文化研究センター データベース)