嵯峨薬師寺 地蔵盆 (右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

京都・寺社

嵯峨薬師寺本堂嵯峨薬師寺 山門 (日月門)嵯峨薬師寺は、「三国伝来の釈迦像」として有名な国宝 釈迦如来を本尊とする「嵯峨釈迦堂 清凉寺」の境内西側にある浄土宗知恩院派の寺院。通常は非公開だが、毎年8月24日のみ地蔵盆に合わせて本堂が一般公開される。

普段は扉が閉じられてひっそりとした本堂も、8月24日当日は紫の幕と「生六道地蔵尊」と書かれた提灯が掲げられ、一般の参拝者も本堂を拝観できる。さほど広くはない本堂の正面に立派に荘厳されて祀られているのは、御本尊の「心経秘鍵薬師如来」。美しい細工が施された厨子に大切に納められている。
左側に目を向けると、こちらに坐すのが本日の主役「生六道地蔵菩薩」。小野篁作と伝わる地蔵尊で、そのお顔は優しくもまた厳しくも見える。向かって左には小さな小野篁の立像、そして右には聖徳太子 (二生六道地蔵菩薩と生御膳歳?) 立像 (京都市指定文化財) が安置されている。その前には「生御膳 (なまごぜん) 」と呼ばれるお供えが所狭しと並ぶ。「生御膳」とは、七種類の野菜を使用して帆掛け舟を模した供物で、地蔵盆法要の独特のもののようだ。湯葉の帆が立つかぼちゃの舟、そこにナス、きゅうり、ずいき、さつまいも、にんじんなどが盛られた三宝 (三方?) が階段状に並んだ様は壮観。
右側に祀られているのは「船上阿弥陀三尊像」。中央に阿弥陀如来坐像、向かって左に勢至菩薩坐像、そして右には観音菩薩立像が安置される。少し首を傾げた勢至菩薩と微笑むような観音菩薩が、船の櫓や櫂を手に持つ姿は珍しい。
また本堂の東側には、伝嵯峨天皇像 (京都市登録文化財) や小野篁坐像、阿弥陀如来像を始めとして数々の像が所狭しと安置されている。

【薬師如来像と薬師寺縁起】
 平安初期の818 (弘仁9) 年、世に蔓延する疫病を深く憂慮した嵯峨天皇は、弘法大師空海に薬師如来像の彫刻を命じ、自身も心経を写経して病魔退散と招福を祈念した。大師が神護寺で一刀三礼して彫った薬師如来像を、清涼殿で開眼供養したところ霊験あらたかで、万民は病苦から救われたという。(「薬師堂縁起」より)
荘厳されるご本尊この時の天皇の宸筆「般若心経」は、勅封心経として大覚寺心経殿に奉安され、「薬師如来像」は勅封秘仏として薬師寺に祀られることになったという。以来薬師寺は、嵯峨天皇勅願所として嵯峨御所 (後に大覚寺となる) の保護を受け、江戸寛永年間の火災の時には、大覚寺の尊性入道親王により再建された。それが現在の本堂。

心経秘鍵薬師如来本尊「心経秘鍵薬師如来」は、18cmという小さな坐像で乾漆造。中央の如来を守るかのように青龍が周りを囲み、今も色鮮やかな彩色が残る。明治初期まで本尊の厨子の開閉は大覚寺のみが行っていたということで、大切に保管されていたことが窺える。「心経秘鍵薬師如来」の名は、弘法大師の著作『般若心経秘鍵』に由来するのだろう。
 尚、明治期に薬師寺は大覚寺の元から離れ、浄土宗知恩院派に属すこととなったという。

【船上阿弥陀三尊像】
船上阿弥陀三尊像 恵心僧都源信 (平安中期の天台宗の僧。主著『往生要集』は、後の法然・親鸞に大きな影響を与えた。) の作と伝わるこの像には、次のような縁起がある。
 生身の阿弥陀仏を拝したいと清凉寺に七日間参籠した源信は、満行の日の暁、高貴な尼僧に導かれて念願の阿弥陀仏を拝することができた。紫雲たなびく中に現れる船。中央には阿弥陀仏が坐し、その両側では、勢至菩薩と観音菩薩が櫓と櫂を手に雲の波間を西の空へと漕ぎ去って行ったという。源信はその時の感動を後世に伝えるために像を彫り薬師寺に残したと伝わる。
 寺に残る古い版木には、船に乗る三尊像が描かれているようだが、過去の火災の折に現物の船は焼失してしまったらしい。
 ・阿弥陀如来像 <鎌倉時代・京都市指定文化財> 勢至菩薩像<京都市登録文化財>

【生六道 (しょうろくどう) 地蔵菩薩】
生六道地蔵菩薩清凉寺から東に少し行った所に、明治初期まで福正寺 (福生寺とも) という寺院があったという。そしてこの寺院に祀られていたのが「生六道地蔵菩薩」で、次のような縁起が伝えられている。
 平安時代初期の公卿 小野篁 (たかむら) は、昼間は朝廷で官吏を、夜は冥府で閻魔大王のもとで裁判の補佐をしていたという伝説の人。彼が「冥土通い」に使ったのが、往きは東山六波羅にある「六道珍皇寺」の空井戸 (死の六道) で、帰りは嵯峨の福正寺 (福生寺) の空井戸 (生の六道) だった。
ある時地獄に赴いた篁は、火焔の中で苦しむ亡者を救い、その身代わりとなって焼かれている地蔵菩薩に出会った。その地蔵菩薩の大慈悲の尊さに感涙した篁は、この世に戻るとすぐにその地蔵尊の姿を彫刻し、嵯峨六道町に福正寺 (福生寺) を建立して祀ったという。(『地蔵尊縁起』より)
 以来、冥土からの出口を「生六道 (しょうろくどう)」と称し、地蔵菩薩像は「生六道 (しょうろくどう) 地蔵菩薩」と呼ばれるようになったとのこと。廃寺となった福正寺は、明治13 (1880) 年に薬師寺に合併され、地蔵菩薩像を含むいくつかの仏像や仏事、そして建具も薬師寺に移された。

「生六道地蔵菩薩」は昭和60 (1985) 年に京都市有形文化財に指定され、翌年度に保存修理が実施された。修理過程で、菩薩像は建長8 (1256) 年さらに慶長12 (1607) 年にも修理されていることが像内墨書より判明。また宝珠台裏に「小野篁」などと読める文字が僅かに認められたという。庭園の三地蔵尊

本堂西側には山門 (日月門) があり、地蔵盆の日には庭園も拝見できる。門をくぐるとまず目に入るのが石の大きな三地蔵尊。向かって左から「夕ぎり地蔵尊」「生六道地蔵尊」そして「るり光地蔵尊」と並ぶ。振り返れば、門の傍にも小さな古い石仏がいくつも安置されている。そう、もうすぐそこは化野だった。

 やわらかに 微笑み浮かべ 地蔵尊 生六道に 坐して見守る  (畦の花)

<参考資料>
・嵯峨 薬師寺 公式HP, 拝観の栞
・『嵯峨・薬師寺 木造地蔵菩薩半跏像』山下絵美 著 (京都市文化財保護課研究紀要 第4号 2021,3)
・『篁と地蔵と薬師寺』梅原 猛 著 (「地霊鎮魂 京都もののかたり」第9回, 読売新聞, 1994年7月31日)