野宮神社 (右京区嵯峨野宮町)
嵐電「嵐山駅」を降りて天龍寺の横を北に進むと「野々宮の碑」があり、左折して細い竹林の道を少し歩けば「野宮 (ののみや) 神社」が見えてくる。「竹林の小径」が観光名所になる以前は、訪れる人も疎らな静かな社だった。今では若いカップルを筆頭に、観光客でいつも混雑する場所のひとつとなっている。
【斎王と野宮】
古代から中世にかけて、代々の天皇の即位ごとに、天照大神の「御杖代 (みつえしろ)」として伊勢神宮に奉仕する「斎王 (さいおう, いつきのみこ) 」が、未婚の皇女または女王から卜定された。斎王はまず一定期間を宮城内の初斎院で潔斎を行い、さらに次の一年間を城外の宮殿にこもって潔斎を続けたが、その時の宮殿を「野宮」(斎宮 いつきのみや とも) と称した。『延喜式』によれば、「野宮」は卜定によって宮城郊外の浄野に置かれることになっていたようだ。平安遷都後は、主に嵯峨野や西院に造営され、「野宮神社」もその一つとされる。因みに嵯峨野には、他に斎宮神社、斎明神社が残る。
【野宮神社の歴史】
平安初期の大同4 (809) 年、嵯峨天皇の即位に伴い皇女 仁子内親王が第27代斎王に卜定された際に、「野宮」として造営されたのが始まりとされている。しかし斎王制度は、後醍醐天皇の時に南北朝の戦乱のため、祥子内親王を最後に廃絶。以後は天照大神を祀る神社として存続していたが、度重なる戦乱の中で衰退。
その後、後奈良天皇や中御門天皇などから大覚寺宮に綸旨が下されて保護を受け再興。現在まで皇室からの篤い崇敬を受けているという。
【黒木の鳥居と本殿】
「野宮」は黒木の鳥居を設け、柴垣をめぐらした質素な宮と定められており、野宮神社の鳥居も皮付きの丸木に笠木と貫だけの古い形のものとなっている。現在の鳥居は、樹皮付きのクヌギの原木に樹脂加工が黒く施されている。鳥居脇にはクロモジの小柴垣が設けられ、平安時代の風情を残すように工夫されている。
「野宮竹」とモミジに覆われた鳥居をくぐると、すぐ前に本殿。御祭神は野宮大神 (天照皇大神)。本殿の左側には、芸能上達の神様「白峰弁財天」があり、手前には縁結びの神様として人気の「野宮大黒天」の祠。その前には「お亀石」と呼ばれる黒い大きな石が置かれているが、なでながら祈願すると、一年以内に願い事が成就すると伝わる神石らしい。傍の無数の絵馬とツヤツヤと光る石の表面が、参拝者の多さを物語っているようだ。
【古の斎宮が偲ばれる苔の庭】
本殿の右側には、火伏せの神様「愛宕大神」が祭祀され、さらに「白福稲荷大明神」(御利益:子宝安産)、「大山弁財天」(御利益:交通安全, 財運向上)と続く。本堂前とは対照的に、境内北側は竹やモミジに覆われて小暗い。奥まで足を運ぶ参拝者も多くはないので、「野宮じゅうたん苔」と呼ばれる瑞々しい緑の苔に覆われた庭には、ひっそりと静かな空気が漂う。「斎宮舊趾」と刻まれた石碑が、古き時代、この地に「斎宮」があったことを伝えている。
【野宮と源氏物語】
紫式部の『源氏物語』第十帖「賢木」では、光源氏と六条御息所の別れが「野宮」を舞台に描かれ、能『野宮』はこれを題材としている。そのあらすじは次のよう。
「葵上に憑いた六条御息所と思しき物の怪の件以来、光源氏と疎遠になってしまった御息所は、彼の寵愛もこれまでと覚悟し、娘の斎宮と共に伊勢に下ることにして「野宮」に遷る。潔斎の宮「野宮」は、気軽に立ち寄れる場所ではなく、源氏は気にかけながらも御息所に会えないでいた。
いよいよ斎宮の伊勢への出立も近づいた秋のある日の夕方。源氏は気心の知れた供をわずかばかり連れて「野宮」に向かう。最初は源氏に会うことをためらっていた御息所も、次第に再び心を開いて彼を迎え入れ、暁まで別れの時を過ごす。」
そして「野宮」の様子は
「遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。…… ものはかなげなる小柴垣を大垣にて、板屋どもあたりあたりいとかりそめなり。黒木の鳥居ども、さすがに神々しう見わたされて、わづらはしきけしきなるに、神司の者ども、ここかしこにうちしはぶきて、おのがどち、物うち言ひたるけはひなども、他にはさま変はりて見ゆ。」
と描写されている。
「野宮」はまさに広々とした寂しい野辺の中にあり、仮普請の質素な宮であることがわかる。現在の観光客で大賑わいの「野宮神社」からは遠くかけ離れているような…。また、光源氏と六条御息所の別離の舞台が、今では「縁結び」で人気の場所となっているのもこれまた「諸行無常」か?
おほかたの秋の別れも悲しきに 鳴く音な添へそ野辺の松虫 御息所
【Note】
(1) 「賀茂祭 (葵祭) 」にも斎王制度があったが、こちらは平安初期の弘仁元 (810) 年に、嵯峨天皇が皇女の有智子内親王を斎王としたのに始まる。そのため、伊勢神宮の斎王は「斎宮」、賀茂神社の斎王は「斎院」と区別されることもある。
(2) 江戸後期の観光ガイド『都名所図会』では、「野々宮」は「小倉山の巽なる薮の中にあり、悠紀 (ゆき) 主基 (すき)の両宮ありて、神明を祭る。黒木の鳥居小芝墻 (がき) はいにしへの遺風なり…」と紹介されている。挿絵には三社が描かれ、中央に「天照皇大神」「愛宕大権現」(?) の二神、左右にそれぞれ「弁財天」と「びしゃ門天」と記されている。かつて野宮神社では、「白峰弁財天」の場所には松尾大神が祀られていたようだが、『都名所図会』に従って配置を改めたらしい。では「毘沙門天」はどこに?いずれにしろ、神仏習合が具現化されたような神社だ。
<参考資料>
・野宮神社 公式HP ・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・『都名所図会』巻之四 秋里籬島著 (国際日本文化研究センター データベース)