北野天満宮「ずいき祭り」
京都の秋祭りの始めとも言える北野天満宮の「瑞饋 (ずいき) 祭り」が、10月1日〜5日にかけて行われた。野菜で飾られた珍しい「ずいき神輿」が、1日から4日午前中まで西ノ京の御旅所で奉安・駐輦されるということだったので、3日の午後、拝観に出かけてみた。
北野白梅町から少し西に入った佐井通を南に向かって歩いていくと、御旅所の周りは多くの人々で賑わっていた。御旅所商店街や御旅所境内には屋台が軒を並べ、まさに「お祭り」!厳かな雰囲気かな?と思っていただけに、いささかびっくり。しかし「ずいき神輿」を間近に見ることができ、なかなか興味深かった。そこで「瑞饋 (ずいき) 祭り」についてちょっと調べてみることに。
【祭りのはじまり】
昌泰の変 (901年) により菅原道真が太宰府に左遷された際に、彼に随行した西ノ京の神人 (じにん) が、道真自作の木像を持ち帰り、西ノ京北町に安楽寺と称する小祠を建立して祀った。9月9日には、収穫した米穀や野菜・草花を飾り付けてお供えしたのが「瑞饋祭」の原型という。
その後、永延元 (987)年に「北野天満天神」の神号が認められて「北野祭」が行われるようになり、天満宮の神輿が西ノ京御輿岡の御旅所に渡御するようになった。この折に、西ノ京神人の人々は、御旅所に駐輦している神輿に「神饌」としてお供えをし始めたという。
【「神饌」から「ずいき神輿」へ】
応仁・文明の乱 (1467-77) の影響で「北野祭」は途絶するが、その間も「神饌」の献納は続けられていた。そして『北野誌』(北野神社社務所編)や『瑞饋神輿略記』(西ノ京青年団) によると、大永7 (1527)年に「神饌」は二本の棒で担がれる「御供槽」という形になり、さらに慶長12 (1607) 頃には現在の形に近い御輿型に変化し、「瑞饋神輿」と呼ばれるようになった。祭りはやがて鉾の練り歩きや御輿を担ぎ回る賑やかなものへと変化し、江戸後期には季語集や年中行事記に「ずいき祭り」として記述されるほどに知られるようになっていたらしい。
明治8 (1875) 年 「北野祭」が私祭として再興されるに伴い「瑞饋祭」は中止となる。
明治23 (1890) 年 瑞饋神輿制作の技術が継承されなくなることを惜しんだ西之京の有志達が、北野天満宮に趣旨を伝えて再興が決まる。以後「瑞饋祭」は、西之京神人と農家独自の祭りから、西之京有志が神輿を奉造して北野天満宮の祭りに加わる現在の形式となった。
【「ずいき神輿」って?】
「瑞饋」には「神仏に感謝して食物をお供えする」といった意味があるようだが、「ずいき神輿」はその読みに因んで屋根がサトイモの芋茎 (ずいき) で葺かれている。そして四方の角を飾る「瓔珞 (ようらく)」や「真紅(しんく)」と呼ばれる柱などの各部品も、野菜や穀物等で飾り付けられている。使用される野菜や草花などのほとんどは、保存会会員が栽培したものというから、ある意味一年かけて祭りの準備がなされていると言えるだろう。
神輿づくりは9月1日の千日紅摘みから始まり、奉納までの一ヶ月間、天神通近くの「西之京瑞饋神輿保存会 集会所」で作業が続けられる。神輿の側面の飾り付けは毎年変わるようで、歴史上の物語から最近の流行まで、色々と趣向が凝らされている。
今年の飾り付けは「ジェラシックワールド」「ミニオンズ フィーバー」「武蔵と卜伝」「尾長鶏」「金太郎」など。どれもとても精巧にできていて、まさに「自然の恵みによる芸術品」。
今年の巡行はコロナ禍の影響で3年ぶりのため、行事の省略や神輿巡行の経路の変更など例年とは少し違っていたようだ。それでも初日の神幸祭では、祭神 菅原道真らの御霊をのせた「鳳輦 (ほうれん)」3基を始め鉾や花傘などの行列が、北野天満宮から御旅所まで練り歩いた。
一方「瑞饋神輿」は、1日から4日まで御輿庫にて奉安されている。2日、3日は御旅所で献茶式などの行事が行われ、いよいよ4日の還幸祭を迎える。還幸祭では「瑞饋神輿」は鳳輦の列とともに御旅所を出御するが、鳳輦の列とは別のルートで氏子地域を巡行するらしい。祭り最後の5日には、北野天満宮で后宴 (ごえん) 祭が行われ、「瑞饋神輿」は解体されるとのこと。
来年は是非とも巡行も生で見てみたいものだ。
<参考資料>
・ 北野天満宮 HP ・ 『中京の年中行事 瑞饋(ずいき)祭』 京都市中京区
・ 『近現代における北野天満宮瑞饋祭の変化について:西之京の変化を焦点に』 吉野 亨 著 (明治聖徳記念学会紀要 〔復刊第53号〕 平成28年11月)