化野 (あだしの) 念佛寺 (2) (右京区嵯峨鳥居本化野町)

京都・寺社

化野念佛寺 参道奥嵯峨 愛宕神社「一の鳥居」から緩やかな坂道を東に向かって下って行くと、右手に化野念佛寺の石垣が見えてくる。平安初期、風葬の地であったこの地に野ざらしとなっていた遺骸を埋葬・供養するために空海が創建した「五智山如来寺」に始まるという古寺。

【仏舎利塔】
 境内の東奥に煉瓦積みの大きなドーム型の建造物が見える。古代インド式のストゥーパ (Stūpa) を模した「仏舎利塔」だ。「碑文」によれば、念佛寺住職であった原弁雄師が、インドのサンチー僧院のパンナティサ大僧正と親交があり、その縁で「仏舎利」を譲り受けてサンチーと同形の舎利塔を1969年4月に建立したとのこと。
仏舎利塔とトーラナ 念佛寺とサンチー僧院両者の仲介役となったのが、滋賀県出身の宗教画家 杉本哲郎氏。杉本氏は日本仏教美術とその原点であるインド美術を研究し、仏画をはじめ宗教を題材にした作品を制作。大阪本願寺津村別院壁画《無明と寂光》は代表作の一つ。外務省文化事業部嘱託としてインドのアジャンタ洞窟壁画の模写に従事したり、東本願寺南方仏教美術調査隊としてインド、クメール、タイなどの仏教美術を調査してきた杉本氏の協力を得て、初めてこのように立派なストゥーパ (仏舎利塔) が建立できたのだろう。
 
 [世界遺産 サーンチーの仏教建造物群]
 インド中部のマディヤ・プラデーシュ州のサーンチー村にあるインド最古の仏教遺跡。アショーカ王のストゥーパがほぼ完全な形で残されていることで有名で、大ストゥーパや周囲の仏教建築物が1989年、ユネスコ世界遺産に登録された。
 前4世紀末にインド最初の統一国家を築いたマウリヤ王朝。その第3代アショーカ王 (在位前273-前232年頃) は、国内の平和的統治を願って深く仏教に帰依し、サーンチーの丘に第1ストゥーパを建立。これがストゥーパの原形とも言われているらしい。
 またインドでは、ストゥーパの四方にトーラナ (Toraṇa) という門が設置されており、念佛寺の「仏舎利塔」の南側にもサーンチーのストゥーパを模してトーラナが建てられている。トーラナは日本の神社鳥居の起源の1つではないかとする学説もあるようだ。もともと日本は神仏習合の国だが、念佛寺のトーラナのように古代インド仏教建築を思わせるものは日本では数少ないと聞く。西院の河原

【水子地蔵堂】
 本堂横の少し奥まった所にひっそりと建つのは「水子地蔵堂」。苔むした茅葺き屋根の小さな堂宇にお地蔵様が祀られ、周りには多くの奉納された涎掛けが並ぶ。幼くして亡くなった子供達が、賽の河原で親を思って石を積み重ね続ける哀しい姿を語る『賽の河原地蔵和讃』に準えた「西院の河原」のある念佛寺だからこそ、密かに多くの人々が供養に訪れるのだろう。ここが「撮影禁止」となっているのも、そうした人々への配慮と思われる。
 毎月お地蔵様の縁日である24日には、本堂に水子地蔵尊像をお祀りして供養をするとのこと。

【角倉素庵の墓】
 「水子地蔵堂」の先にあるのは竹林。その竹林の間を縫うようにして穂垣の小径がある。小径を半分ほど上っていくと、「角倉素庵の墓」と書かれた駒札が見える。左手奥の竹林に隠れるようにひっそりと素庵のお墓があるが、墓前への道は閉ざされている。

竹林の奥に見える角倉素庵の墓角倉素庵 (1571-1632) は、大堰川を開き、高瀬川を開削した豪商 角倉了以の息子で、本阿弥光悦や俵屋宗達等とも交流のある文化人であった。特に古活字の「嵯峨本」刊行は有名。

角倉家の菩提寺は嵯峨野の二尊院だが、不治の病を患ったため、自ら化野に埋葬されることを願ったという。
 

【六面六体地蔵尊】六面六体地蔵尊
 竹林の小径を上った先には、六面体の石龕「六面六体地蔵尊」が祀られている。北側にある墓所「奥嵯峨霊園」を守護する地蔵尊なのだろう。
 仏教の輪廻思想では、人は死後その業 (ごう) により六つの世界、すなわち「地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道」の六道のいずれかに赴くとされる。六つの各面に刻まれた像は、各世界で人々を救おうとする地蔵尊の姿を現したものという。
 傍の「お参りの仕方」によれば、石龕の土台となっている水鉢の水を上からかけ、天道から人道へと時計回りにお参りしていくとのこと。その時には地蔵菩薩の真言「オン・カカカ・ビサンマエイ・ソワカ」を唱える。

【天満宮】天満宮
 境内北側、山門近くにあるのが「天満宮」。言わずと知れた菅原道真を祭神とする神社だが、少し変わっているのが鳥居。北野天満宮の鳥居は明神系だが、こちらの鳥居は神明系の「宗忠鳥居」。「宗忠鳥居」と言えば京都 神楽岡にある宗忠神社が名称の由来となっている。宗忠神社は、江戸時代に開かれた教派神道「黒住教」の教祖 黒住宗忠 (岡山市今村宮の神官) を祀る神社として創建された。
 念佛寺の本堂と庫裏を再建した寂道和尚や、「西院の河原」の整備に注力した福田海 (ふくでんかい)の開祖 中山通幽が岡山ゆかりの人であったこととなにがしかの関係があるのかもしれない。

あだし野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立ちも去らでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからむ。世は定めなきこそいみじけれ。                                                 兼好法師『徒然草』第七段 

<参考資料>
    ・ あだし野念仏寺   拝観の栞・公式HP        ・ 世界遺産 オンラインガイド website
    ・ 国立文化財機構 東京文化財研究所 website "物故者記事"
    ・『方丈記 徒然草』1989, 岩波書店 (新日本古典文学大系 39)    ・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』