三吉 (さんきち) 稲荷神社 (映画神社 ) (右京区太秦多藪町)
嵐電 (京福電鉄) 「帷子 (かたびら) ノ辻」駅の南側にある「大映通り商店街」を東に向かって4, 5分歩いて行くと、右手に「三吉稲荷神社 (正式名称 : 三吉稲荷大明神・中里八幡大菩薩) 」がある。もう少し足を伸ばせば、道は太秦「廣隆寺」の前に出る。
【歴 史】
かつてこの辺りは葛野郡太秦村と呼ばれ、一面が竹藪に覆われて狐狸や蛇の栖む地であったという。その竹藪を切り開いて大正15 (1926) 年に最初にこの地に撮影所を建設したのが阪東妻三郎。
昭和2 (1927) 年には「日活太秦撮影所」が開所。開所の際に切り開いた周囲の竹藪の中から、人々から忘れ去られたように朽ち果てていた二つのご神体「中里八幡」と「三吉稲荷」が見つかった。さらに行き場を失くした小動物の姿が頻繁に見られるようになったこともあり、日活の関係者が中心となって昭和5 (1930) 年に新たに二つの祠を建立し供養したとのこと。今も境内の玉垣には、大河内傳次郎、入江たか子、伴淳三郎といった往年の有名スターの名を見ることができる。
日活の撮影所開所以降、太秦では大映、松竹、東映と次々に新たな撮影所ができる。多くの映画が制作されて「日本のハリウッド」と称されるほどに「映画のまち」として賑わいを見せた。
昭和56 (1981) 年、「三吉稲荷・中里八幡」の両社は「木嶋坐天照御魂神社 (木嶋神社, 蚕の社)」の境外社となる。
平成10 (1998) 年、日本の映画産業と深く関わりのある「三吉稲荷神社」を通称「映画神社」と命名。
平成13 (2001) 年、境内に『日本映画の父 牧野省三先生顕彰之碑』が建立される。
【境 内】
東側の道路に面して石の明神鳥居が建つ。こじんまりとした敷地の奥に瓦屋根の覆屋があり、向かって左側に「三吉稲荷大明神」、右側に「中里八幡大菩薩」が合祀される。
「三吉稲荷」は、伏見稲荷大社の稲荷山に崇敬者によって奉納された多くの「お山のお塚」のひとつのようなので、御祭神は五穀豊穣を司る宇迦之御魂大神 (うかのみたまのかみ, または倉稲魂命 うかのみたまのみこと) か?
「八幡神 (やはたのかみ, はちまんしん)」は、古より日本で信仰されてきた神で、現在の神道では応神天皇 (誉田別尊 ほんだわけのみこと) の神霊で571年 (欽明天皇の時代) に初めて宇佐の地に示顕したとされる。その後仏教と習合し、天応元 (781) 年に朝廷が宇佐八幡神を鎮護国家・仏教守護の神として「八幡大菩薩」と称したことにより、八幡神が全国に広まっていったようだ。「中里八幡大菩薩」は、古くは「太秦広隆寺七保庄」、江戸時代には「太秦村の七里」の一つ「中里」の産土神として祀られていたのではないだろうか。
境内左手奥には、きれいに清められた古い石の地蔵尊も祀られている。こちらも竹藪の中に埋もれていたものなのか?
【牧野省三先生顕彰之碑】
参道に面してまだ新しい立派な石碑が立つ。表には『日本映画の父 牧野省三先生顕彰之碑』と刻まれ、裏面には建立委員会による顕彰の言葉がある。
牧野省三は明治11 (1878) 年京都に生まれ、母方の経営する劇場「千本座」で幼少より芸事に親しむ。明治41 (1908) 年に『本能寺合戦』を初監督して以後、数多くの作品の制作、監督、脚本を手がけるとともに、また多くの監督、脚本家そして俳優を育てて日本映画の発展に寄与した。
碑文の最後は “ミレニアム2000年 … 日本映画の父 牧野省三先生の偉業を讃え 映画のまち太秦のこの地に建立し 新世紀での日本映画の更なる発展を祈念する" と締め括られている。
建立委員会には、東映、松竹、高津商会、京福電鉄などの企業や地元の大映通り商店街振興組合、そして牧野省三の孫である長門裕之、津川雅彦を始めとして藤田まこと、吉永小百合、新藤兼人といった俳優や監督などが名を連ねている。
2020年12月1日の「映画の日」には、映画で地域を盛り上げようと大映通り商店街や太秦地域の映画関係者、京福電鉄などが合同で「映画神社 (三吉稲荷神社)」」を参拝。境内には絵馬掛けが新設され、「カチンコ絵馬」が初披露された。
<参考資料>
・ 「映画神社命名の記」 (境内駒札) ・ 三重県桑名市 「三吉稲荷神社」公式HP
・「News Release, 2020.11.25」 大映通り商店街振興組合, 京福電気鉄道株式会社
・第228回京都市考古資料館文化財講座「太秦・嵯峨野地域の遺跡6 : 都の時代」 東 洋一 ((財)京都市埋蔵文化財研究所) 2011.7.23
・宇佐神宮 公式ホームページ