櫟谷宗像神社 (西京区嵐山中尾下町)

京都・寺社

渡月小橋 (渡月橋の南側にある短い橋) の南側の道を川沿いに上流方面に少し歩いていくと、「櫟谷宗像 (いちたにむなかた/いちいだにむなかた) 神社」の参道の石段が見えてくる。石段前には「官幣大社松尾神社 攝社 櫟谷宗像兩神社」の石標。その横には「嵐山モンキーパーク」の案内もある。

【歴 史】
 現在は「櫟谷社」「宗像社」の二社同殿で祀られているが、天智天皇7年 (668年) に筑紫の宗像から勧請され、もとは別々の神社として祭祀されていたようだが、詳細は不明。
 「櫟谷神社」… (祭神) 奥津島姫命 嘉祥元 (848) 年 従五位下、貞観10 (868) 年 正五位下の神階を授けられた延喜式内社
 「宗像神社」… (祭神) 市杵島姫命 
 『日本三代実録』には「貞観12 (870) 年、葛野鋳銭所に近い宗像・櫟谷・清水・堰・小社の五神に対して賀茂御祖別雷両社・松尾社・稲荷社・石清水社などとともに新鋳銭を奉納した」という内容の記述があり、両社が別々に存在していたことがわかる。また松尾大社の神像館にある「室町時代初期の境内図」では、両社は独立社殿ながら隣接して描かれている。
 明治10 (1877) 年 両社とも松尾大社の摂社となる。
 現在「櫟谷社」は松尾本社・月読社とともに「松尾三社」と称され、さらに両社とも「松尾七社」のうちに数えられている。また本地垂迹において弁才天が市杵島姫命と同一視されることが多いことから、古くより「嵐山弁天社」として福徳財宝の神・水難の守護神として尊崇されてきたという。さらに最近では、祭神がどちらも女神であることから良縁祈願の参詣者も多いらしい。

【祭神は宗像三女神?】
 福岡県の宗像大社には、天照大神と須佐の男の命との誓約 (うけい) の結果生まれた三女神である「田心姫神 (たごりひめのかみ)」「湍津姫神 (たぎつひめのかみ)」そして「市杵島姫神 (いちきしまひめのかみ)」が祀られている。この三女神の名は『日本書紀』によるもので、『古事記』においては「田心姫神」「多紀理毗売 (たきりびめ)」または「奥津島比売」とされている。このことから、「櫟谷社」と「宗像社」には宗像三女神のうちの二神が祀られていることになる。宗像三女神は海の神・航海の神として崇敬されており、暴れ川であった大堰川 (葛野川/桂川) の水運の安全を祈って祀られたのだろうか。それにしても、もう一人の女神「湍津姫神」はどこに? そんな疑問が残る。

【本 殿】
 参道の石段両側には朱塗の灯籠が並び、上りきった所でこれも朱色の明神鳥居が参詣者を迎えてくれる。鳥居には「櫟谷神社 宗像神社」の神額。参道はまっすぐ拝所そして本殿へと通じている。
 本殿は銅板葺屋根の流造。朱の玉垣で囲われており、拝所両側にそれぞれ灯籠が2基。本殿向かって右に「櫟谷大神」、左に「宗像大神」が祀られている。左手の社務所近くにある苔むした古い灯籠の横には、赤い椿がきれいに咲いていた。

 『万葉集』に “川のうへの つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢 (こせ) の春野は" (巻第1-56, 春日蔵老 (かすがのくらのおゆ)) とあるように、古来椿の木は神聖な樹木とされ、愛でられてきた。この女神の在す宮に似つかわしい風情。

 (文化財) かつて「櫟谷宗像神社」に安置されていた女神像2躯・神像形1躯は、京都府指定有形文化財として松尾大社の「神像館」に展示されている。 

【手水鉢】
手水舎 鳥居をくぐるとすぐ右手にこれも朱塗の立派な手水舎がある。どっしりとした大きな石の手水鉢で、由緒あるものかと思ったが、寛永20 (1643) 年に嵯峨角倉初代の吉田厳昭が寄進したものと伝わるようだ。吉田厳昭は、「嵯峨本」で知られる角倉素庵の次男で、大堰川・高瀬川を開削した角倉了以の孫になる。大堰川畔に居住し、大堰川舟運の管理などに携わったことから、水運の神「櫟谷宗像神社」に奉納したのかもしれない。

 境内西側にも鳥居があり、こちらは裏参道の石段に続く。ここからは大堰川の流れを眺望できる。また松尾大社の9月の八朔祭で巡行する「やまぶき会」の「女神輿」は、「櫟谷宗像西の鳥居と裏参道神社」で神事を行なった後、大堰川対岸の「亀山公園」方面に向かって船渡御する。水にゆかりの女神が祀られる神社らしい行事だ。

西の鳥居から大堰川を望む  大堰川 護る社の 斎つ椿 匂う紅 神のまにまに (畦の花)

<参考資料>
・松尾大社 公式ホームページ           ・松尾大社「女神輿やまぶき会」 公式ホームページ
・経済雑誌社 編『国史大系』第4巻 日本三代実録,経済雑誌社,明治30. 国立国会図書館デジタルコレクション
・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』