「人日の節句」と七草粥

総記

<”人日の節句 (供)” って?>
 1月7日は五節句のひとつ「人日 (じんじつ) の節句」。その起源は古代中国。6世紀半ば頃に著された『荊楚歳時記 (けいそさいじき)』 には、正月元日から八日まで各日に獣畜をあてて占う風習があり、その七日目にあてられたのが人であったため、1月7日が「人日」と呼ばれるようになったとある。また元日より順に「鶏・狗 (いぬ)・羊・猪・牛・馬・人・穀」とあてられ、その日には該当する生き物を殺さない、七日には人を処刑せず、八日には穀物を断つとする風習があったとも。
 * 『荊楚歳時記』 … 6世紀半ば、梁の宗懍 (そうりん) が六朝時代の荊楚 (現在の湖北・湖南省) 地方の年中行事を記した書。7世紀に隋の杜公瞻 (とこうせん) が注釈を付し書名を確定。

<なぜ七草粥?>
 先の 『荊楚歳時記』 には、「正月七日為人日以七種菜為羮」との記述があり、この風習が日本にもたらされて「七種 (七草) 粥」の起源になったともされている。鎌倉時代の鴨長明の 『歌林四季物語』 には、「なゝくさのみくさ集むること人日菜羹を和すれば一歳の病患を逃るると申ためし古き文に侍るとかや。(略) とよみけかしきやひめ (豊御食炊屋姫=推古天皇) の五年 (597年) に事起こりて、都の外の七つ野とて七所の野にて一草づつを分ち採らせ給ふけり。なづな、おぎょう、すずしろ、仏のざ、川な、くくたちとかや申すなるべし。」とある。後の時代に記されたものではあるが、飛鳥時代にはすでに一年の無病息災を願って七種類の若菜を入れた羹 (あつもの, 温かいスープ) を食す習慣があったことが窺える。

<"七日節会" と “若菜摘み">
 ところで「人日の節句」とは別に、日本の朝廷では1月7日に「七日節会」と呼ばれる公式行事があったという。この行事は「白馬 (あおうま) 節会」と称し、年頭に七疋の白馬 (青馬) を見れば年中の邪気を除くとされるもので、古代中国の五経のひとつ『礼記』に見られる。
 一方「若菜摘み」『万葉集』 にいくつかの歌が見られるように、「七日節会」とは別に行われていたことがわかる。

例えば山部赤人は     明日よりは 春菜採まむと 標めし野に 昨日も今日も 雪は降りつつ 

と詠んでいる(巻八-1427)。青菜の少ない冬の間に、新鮮な菜類を求めて「若菜摘み」をしていた人々の様子が窺える。朝廷では、正月の上子の日 (初子 はつね の日)に「供若菜 (わかなをくうず)」という若菜を献上する行事もあったようだ。
 中国の「人日の節句」における「羹」や日本の「七日節会」白馬 (青馬)そして日本古来の「若菜摘み」が融合して、「年頭に、白い雪の下から萌え出る若菜 (青いもの=緑のもの) の生命力を体内に取り込んで邪気を払い、その年の無病息災を願うための宮廷行事」となり、やがて「七草粥」へと形を変えていったのかもしれない。

 平安初期の第58代光孝天皇は、まだ皇子であった頃に次の歌を詠んだ。
  君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ   (古今集 春)

また、『枕草子』 第三段「正月一日は」には宮中での1月7日の様子が次のように描かれている。

 七日、雪まのわかなつみ、あをやかに、例はさしもさるもの目ちかからぬ所に、もてさわぎたるこそをかしけれ。白馬 (あをむま) みにとて、里人は車きよげにしたててみに行く。

平安時代の人々にとっては、「白馬節会」「若菜摘み」もともに身近な行事であったようだ。

<七種 (七草) 粥と “春の七草”>
 江戸時代初期、幕府は宮廷儀礼とは別に、民間の伝統的節供行事を中国式の命名と解釈を施して五節供 (句) を式日として定めた。この五節供 (人日・上巳・端午・七夕・重陽) の制は明治6 (1873) 年に廃止されたが、その後も民間行事として定着し日本各地で行われている。
 さて「人日の節句 (七草の節句) 」に食する「七草粥」には、一般的に「春の七草」(セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロの七種) を入れるとされる。しかし日本のどこでもこの七草全てが手に入るわけでもなく、時代や地方によって揃える若菜は異なり、別の葉物を足して七種にしたり、ナズナやアブラナだけという地域もあるという。だから「七草粥」「七種粥」と表記されたり「薺 (なずな) 粥」と呼ばれたりする。

<"七種粥" の儀式>
 江戸後期の風俗史家である喜田川守貞が著した 『守貞謾稿 (まんこう)』 には、当時の人々が「七草粥」を作る時の様子が記されている。
 「六日に七草を買い、同夜と翌七日暁に2度叩く。俎板にナズナを置き、傍には薪・庖丁・スリコギ・杓子など七つの道具を揃える。そしてその歳の「歳神様」の方 (恵方) に向かい、囃子ながら7回庖丁でナズナを叩く。同様にして残りの六種も叩く。」

 七草を叩く時の歌は『七草囃子』『七草たたき』などと呼ばれて日本各地にあるが、その詞もまた地域により様々。『守貞謾稿』 には関西では
 「唐土 (とうど) の鳥が、日本の土地へ、渡らぬさきに、なずな七種、はやしてほとと」
と囃されるとある。因みに年中行事として「七草粥の日」が催される京都の城南宮では「唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に、七草なづな、テッテッテロロロ…」という囃子歌が会場に流れる。調べてみると「唐土の鳥と日本の鳥と渡らぬ先に、あわせてこわせてバッタバッタ」(山梨県) や「七草ただげ七草ただげ七草なずな、とうどの鳥といなかの鳥と通らぬ先に七草ただげ」(宮城県) などいろいろで実に興味深い。

<『七草囃子』の意味することは?>
 ここでふとどの詞にも共通する 「唐土の鳥」 って何だろうと疑問が生じる。「人日の節句」でも触れた中国の民俗資料の古典 『荊楚歳時記』 には、正月夜に「鬼鳥」が多く飛び交い災いをもたらすので、家々では槌で戸を叩き、狗 (イヌ) の耳を捩って吠えさせ、灯りを消して追い払ったという風習が記されている。これが日本に伝来し、やがて「七草粥」の行事の伝播とともに 「唐土の鳥」 として囃子歌に採り入れられたのかもしれない。「鬼鳥」は日本では「鬼車 (きしゃ) 」という中国の伝説の怪鳥ともされており、九つの頭を持った毒のある鳥で夜に人家に血を滴らせて凶事をもたらす鳥と考えられていたようだ。
 現在の鳥インフルエンザを思い起こさせるような伝承だが、先人達は新しい年の健康と豊かな収穫を祈り、囃しながら若菜を叩いていたのだろう。

<参考資料>
・ 『春の七草・春の七種』(みんなの知識 ちょっと便利帳) みんなの知識委員会
・ 『レファレンス協同データベース』国立国会図書館
・ 『枕草子』池田亀鑑校訂 岩波書店, 1962 (岩波文庫 黄 16-1)
・ 『吉海直人の古典講座 (3)「七草粥」の囃子詞』 新島八重顕彰会, 2021.1.30
・ 『入門歳時記 : ハンディ版』大野林火監修, 俳句文学館編 10版 角川書店, 1994, 10
・ コトバンク          ・ ジャパンナレッジ 東洋文庫