浄瑠璃寺 (木津川市加茂町西小) (1) 歴史

京都・寺社

浄瑠璃寺山門

 (山号) 小田原山 (院号) 法雲院 浄瑠璃寺 (九体寺)   (宗派) 真言律宗
 (本尊) 九体阿弥陀如来像
 (札所等) 西国薬師四十九霊場 第37番, 関西花の寺二十五霊場 第16番, 仏塔古寺十八尊 第10番, 神仏霊場巡拝の道 第128番 (京都第48番)

 JR加茂駅からコミュニティバス「当尾線」に乗車。次第に山深くに入って行くバスに揺られて20分程。「浄瑠璃寺前」でバスを降り、土産物店や飲食店の並ぶ小径を行くと、瓦葺の山門が見えてくる。参道前には古い石碑があり、両脇には 堀辰雄 『浄瑠璃寺の春』で描写した馬酔木が咲く。山門前では石仏がお出迎え。

参道

 山門を入るとすぐ左手に鐘楼。そして南側には史跡・特別名勝に指定されている 「浄土式庭園」 が広がる。寺院全体が森にすっぽり包まれているような自然豊かな場所だ。

【歴 史】
 奈良県との府県境に位置するこの「当尾 (とうの)」地域は、古くは「小田原」と呼ばれ、平安時代後期には南都仏教の聖地として多くの修行僧が庵を営み「小田原別所」とも称されていた。小田原は大きく東西に二分され、「浄瑠璃寺」は西の中心として栄え「西小田原」とも言われた。その後、丘陵に寺院の多くの塔が尾根をなしていたことから一帯は「塔尾 (とうの)」と呼ばれるようになり、昭和26 (1951) 年に加茂町に編入されるまでは「当尾村」であった。地名の変遷からも、この地域が仏教と深く関わりのある歴史を持つことがわかる。

鐘楼

 創建に関しては、奈良時代に聖武天皇の勅願により行基が開基、あるいは多田 (源) 満仲だったとも伝えられるが定かではない。室町時代初期の当寺に伝来する記録 『浄瑠璃寺流記事 (じょうるりじるきのこと)』(重文)が、その起源や歴史を知るうえで唯一の拠り所となっている。

<平安時代>
 1047 (永承2) 年:当麻出身の僧 義明 (ぎみょう) を本願に、阿知山大夫重頼を檀那 (後援者) とし、薬師如来を本尊とする西小田原の小堂「西小田原寺」として始まる。重頼については、地元の小豪族であろうと推定されている。
 その後、薬師如来の浄土 “浄瑠璃世界" に因み「浄瑠璃寺」と称するようになる。
 1107 (嘉承2) 年:九体阿弥陀堂が建立され、本尊 阿弥陀如来の開眼法要が営まれる。薬師如来は西堂に遷される。
 1146 (久安2) 年:食堂・釜屋ができる。
 1150 (久安6) 年:興福寺一乗院門跡の伊豆僧正 恵信 (えしん;摂政 藤原忠通の子の覚継) が入寺し、伽藍や坊舎を整備。また結界を定めて池を掘り石を立てて造園する。
 1157 (保元2) 年:九体阿弥陀堂が宝池西岸に移建される。
 1159 (平治元) 年:秘密荘厳院 (真言堂) が上棟される。
 1178 (治承2) 年:三重塔が京都一条大宮の某寺より移築され、鐘楼が造立される。
  *平安後期に興福寺一乗院門跡の恵信によって、現在のような浄土教信仰の伽藍配置が整えられていったことが『流記事』からわかる。

本堂

<鎌倉〜南北朝時代>
 1203 (建仁3) 年:楼門 (北門)・経蔵・閼伽井が造営される。
 1212 (建暦2) 年:本堂に吉祥天女像 (重文) が安置される。
 1223 (貞応2) 年:南大門・西大門などが造営される。
 1241 (仁治2) 年:馬頭観音立像 (重文) が造立される。
 1296 (永仁4) 年:吉野の天川より弁財天を勧請し、宝池中島の祠に祀る。
 1311 (延慶4) 年:護摩堂が建立され、不動明王三尊像を安置。
 1350 (正平5) 年:『浄瑠璃寺流記事』書写される。
 1366 (貞治5) 年:三重塔下と本堂正面に石灯籠が造営される。
  *『流記事』は1475 (文明) 年で終わり、これ以降については『浄瑠璃寺縁起』には、天正年間に寺領が減少し衰微していったことが記されているようだ。

三重塔

<江戸時代>
 17世紀後半より伽藍の復興・維持活動が活発になる。
 1652 (慶安5) 年:灌頂堂が建立され本尊 大日如来像を安置。
 1666 (寛文6) 年:本堂 (九体阿弥陀堂) の屋根を檜皮葺から寄棟本瓦葺に改造。一間の向拝も付けられて現在の姿となる。
  *江戸期、浄瑠璃寺所蔵の十二神将 (現在、静嘉堂文庫美術館が七躰、東京国立博物館が五躰と別々に所蔵 ; 重文) や一切経 (袋中上人が購入) などの寺宝が次々に売りに出されたようだが、寺院再興のために行われたのだろう。

 明治初期、廃仏毀釈の混乱期に真言律宗に転じ、奈良 西大寺の末寺となる。

此岸より本堂を望む

【境 内】 

 境内中央に池「宝池 (阿字池)」を配し、池東に薬師如来を祀る「三重塔」池西には九体阿弥陀仏を安置する「本堂」がある。太陽の昇る東方にある浄土 (浄瑠璃浄土) の教主が薬師如来で、太陽の沈み行く西方浄土 (極楽浄土) の教主が阿弥陀如来であるという仏教の浄土思想の影響を強く受けた伽藍配置となっている。

 池の東側は「此岸 しがん」(現世)、西側は「彼岸 ひがん」(涅槃の地) とされるので、この寺院では「先ず東此岸の三重塔の薬師如来に現世救済を願い、次いで池越しに西彼岸の本堂の九体阿弥陀仏に来迎を願う」のが本来の礼拝の仕方であるという。

 朱の色も鮮やかな「三重塔」は、境内東側の高台に建つので、山門を入るとすぐに目に付く。「三重塔」前から振り返れば、池対岸の正面に本堂がよく見える。本堂の扉が開けられている時に「三重塔」側から本堂を見ると、中央の阿弥陀仏の顔は本堂の庇に隠れて見えないが、池に映る姿を見れば顔も見えるという。池に映して見ることで、極楽浄土の世界を見るように設計されていたようだ。残念ながら、現在では本堂の扉が開くことは殆ど無いようだが、一度は拝見したいものだ。

石灯籠火口から見る三重塔

 庭園 は池泉回遊式なので、「三重塔」前から緩い坂道を南へと向かい、西側の 本堂 まで池の周りを散策できる。池中央には中島があり、朱色の弁天社が設けられている。三重塔前には古い石灯籠があるが、そこから本堂前にあるもう一基の石灯籠に視線を移せば、さらにその先には中尊の阿弥陀仏が坐すという仕掛け。この二基の石灯籠は、南北朝時代の般若寺型石灯籠 (重文)。灯籠の火口部分から対岸を見てみるのも興味深い。
 本堂前からさらに北に行けば、大日如来像を祀る「灌頂堂」「本坊」がある。彼岸 (本堂前) から東方「三重塔」を望めば、景色はまた異なった味わいを見せてくれる。

<参考資料>
・ 『浄瑠璃寺拝観のしおり』        ・ 木津川市 website 観光情報:社寺
・ 神仏霊場会 website  参加霊場一覧
・ 『奈良と平泉 : なら学談話会報告』  前川 佳代 著  (奈良女子大学研究教育年報 第8号)
・ 『「西小田原山浄瑠璃寺ノ図」について』 丸尾佳二 著 (大阪商業大学商業史博物館紀要 / 大阪商業大学商業史博物館 編 (5) p255-261, 2004-07 )