浄瑠璃寺 (木津川市加茂町西小) (2) 伽藍・仏像
【九体阿弥陀堂 (本堂)】(国宝)
藤原時代 1107 (嘉承2) 年に正面を池に面して建立。創建時は檜皮葺であったが、江戸時代 (1666 (寛文6) 年) に寄棟・本瓦葺きとなり、同時に一間の向拝が付けられた。9躰の阿弥陀如来像を横一列に安置するため、正面11間、側面4間の横長の堂宇となっている。
堂内床は板敷き。内陣の中央一間の天井が高く、全体に天井板を張らずに屋根裏の構造をそのまま見せる「化粧屋根裏」の簡素な造り。横長の須弥壇に9躰の阿弥陀如来像が安置されている。鎌倉時代に造られたとされる須弥壇には、魔除けの意味を持つとされる連珠・剣頭・巴の文様 (春日大社や車折神社などでも見られる) が施されている。
平安中期に藤原道長が造営した「法成寺無量寿院」に代表される「九体阿弥陀堂」は、京都を中心に30ヶ所ほどが記録に残っているようだが、現存するのは浄瑠璃寺本堂のみ。
《 仏 像 》
<九体阿弥陀如来像> ( 国宝, 平安時代後期 (藤原時代) 作 )
本堂中央に祀られる9躰の阿弥陀如来坐像。天井が一段高い中央には丈六の中尊、そして左右に半丈六の4躰がそれぞれ安置される。中尊と脇仏8躰は、結ぶ印相も異なる。中尊は来迎印 (下生印) を結び、光背には千体の阿弥陀仏の化仏と四体の飛天が配されている。一方脇仏の方は定印 (上生印) を結び、光背には浮き彫りがあり、全体的に赤みを帯びた彩色が施されているようだ。中尊・脇仏ともにヒノキの寄木造りで、漆箔仕上げ。
中尊を座して見上げると、ちょうど目が会うような位置関係になり、その眼差しに穏やかな優しさが感じられる。また脇仏8躰は、一見とてもよく似ているが、仔細に拝見すると表情や衣文の流れの処理の仕方などが異なっている。別々の仏師の手によるもので、または時代も少しずつ違うのかもしれない。
2018 (平成30) 年度より5ヶ年をかけて、9躰全てが順次保存修理されていたため、長らく9躰の阿弥陀如来像が揃って安置されているのを見ることはできなかった。
<四天王像> ( 国宝, 平安時代後期 (藤原時代) 作 )
本堂入り口を入るとすぐの左手 ( 須弥壇に向かって左手 ) に、国宝の四天王像のうち、持国天と増長天 が前後に安置。寄木造で漆箔・彩色が施される。藤原期四天王の代表像と言われ、赤みを帯びた体に纏う装身具の極彩色がとてもよく残っている。それを全身に施された截金が、さらにきらびやかに見せている。薄暗い堂内で拝見しても美しい。踏みつけられている邪鬼の表情はコミカル。現在、多聞天は京都国立博物館に、広目天は東京国立博物館にそれぞれ寄託されている。
<子安地蔵菩薩立像>
( 重文, 平安時代後期 (藤原時代) 作 )
中尊に向かって右隣に安置される。丸顔の童子のような顔で、胡粉で肌は白く塗られている。左手に如意宝珠を持ち、右手は下ろして与願印を結ぶ。胸元の紐の結び目が、腹帯のようにも見えることから安産祈願の「子安地蔵」として信仰されているらしい。なで肩の柔らかな印象の地蔵菩薩。
<秘仏 吉祥天女像> ( 重文, 鎌倉時代作 )
中尊に向かって左隣にある厨子内に安置されているのが、秘仏の「吉祥天女像」。鎌倉時代の建暦2 (1212) 年に本堂に祀られたことだけが明らかになっており、作者等は不詳。
白い体部にふくよかな顔。蛾眉に切れ長な目、小さな鼻と口のいわゆる「唐美人」。右手は与願印を結び、肘を曲げて上げた左手の掌には宝珠を載せる。赤を基調とした極彩色の衣を纏い、袖や腰紐は風にたなびいているようだ。「日本一の美人」「当尾の美女」などと呼ばれるそうだが、確かに美しい。
厨子の扉絵も像同様に華やかで美しいが、現在浄瑠璃寺にあるのは模写とのこと。オリジナルのものは明治初期に流出し、現在は鎌倉時代の絵画資料として貴重であるということから重文となり、東京芸術大学が所蔵。
*公開は1月1日-1月15日、3月21日-5月20日、10月1日-11月30日
<不動明王及び二童子像> ( 重文, 鎌倉時代作 )
本堂の右脇 (北側) に安置。玉眼を嵌め込んだ目を大きく見開き、力強く勢いのある表情を見せる不動明王は、迦楼羅光背を付けて岩座に立つ。その向かって左側に「制多迦童子 (せいたかどうじ)」、右側には「矜羯羅童子(こんがらどうじ)」が脇侍として従う。2躰は、中尊の半分近い像高。知恵の杖に顎をのせて遠くを望む表情の「制多迦童子」に対し、両の手を合わせ優しく不動明王を見つめる「矜羯羅童子」は愛らしい少女のようにも見える。三尊とも衣には鮮やかな彩色がよく残っている。
【三重塔】(国宝)
『浄瑠璃寺流記事』によれば、1178 (治承2) 年に京都一条大宮の某寺より移築されたという。初層内部に柱が無く、心柱は初層天井から建てられている。元は仏舎利を納めていたのではと推定されているようだが、浄瑠璃寺に移されてからは東方本尊の「薬師如来坐像」(重文, 秘仏) が安置される。
初層内部の扉には釈迦八相図、壁面には十六羅漢図などが描かれている。
<秘仏 薬師如来坐像> ( 重文, 平安時代後期 (藤原時代) 作 )
浄瑠璃寺建立当初の本尊。ヒノキ材の一木割矧ぎ造。彫眼。像高85.7cm。目鼻立ちのはっきりした顔で、やや下向きの眼差し。右手は施無畏印を結び、膝に置いた左手に薬壺を持つ。体は金色に輝き、赤い色調の衣の彩色もよく残る。
*公開は毎月8日、彼岸中日、正月は1・2・3日と8・9・10日 (いずれも好天に限る)
【潅頂堂 (かんじょうどう)】(京都府暫定登録有形文化財)
境内北側に建つ堂宇で、江戸初期の1652 (慶安5) 年に建立されたという。本尊「秘仏・大日如来」が南向きに祀られる。
<秘仏 大日如来坐像>
智拳印を結ぶ金剛界の大日如来。高く結い上げた髻が印象的で、端正で理知的な顔。平成の解体修理の際の調査から、平安末期の慶派仏師の作と推定されている。(1月8・9・10日の3日間のみ公開)
灌頂堂には他にも以下の秘仏が安置されるというが、ほぼ全て非公開。
◉「秘仏 弁財天像」… 鎌倉時代に吉野「天河大辨財天社」(奈良県吉野郡天川村) から勧請されたという記録が残る。かつては池の中島の祠に祀られていた。
◉「秘仏 役行者像」… 室町時代作。近年修復され、その折に前鬼・後鬼が新たに造像されて三尊像となる。
【その他】
三重塔前から池の南へと坂道を下って行くと東屋があり、その近くには 「奥之院」 への入り口がある。森の中へと細い道が続いており、「奥之院」の岩場までは10分あまりと栞には書かれている。かつての行場と伝わり、1296 (永仁4) 年作の銘が残るという線彫り磨崖仏の不動明王や滝があるとのこと。
本堂の南側には 「鎮守社跡」。江戸時代後期に刊行された秋里籬島の『拾遺都名所図会』には、「春日・白山」の鎮守社が描かれているが、現在は基壇のみが残っている。またそこから本堂までの通路沿いには、多くの石仏が並べられている。いかにも「石仏の里 当尾」らしい。
<参考資料>
・ 『浄瑠璃寺拝観のしおり』 ・ 木津川市 website 観光情報:社寺
・ 「浄瑠璃寺・当尾」 京都風光 website ・ 弥勒の道プロジェクト website