本阿弥光悦 (ほんあみ こうえつ, 1558-1637)

人物

 江戸初期の書家、芸術家で「数寄者」または「異風者 (世間一般とは異なる人)」とも称された。

「本阿弥光悦坐像」伝本阿弥光甫作 (「光悦寺縁起」より)

 永禄元 (1558) 年、父 本阿弥光二と母 妙秀の長男として京に生まれる。本阿弥家は代々刀剣鑑定・磨砺・浄拭 (ぬぐい) を生業とした家で、加賀前田家から扶持200石を受け、禁裏を始め将軍家及び諸大名の御用も務めていた。光悦もこれを継承していたが、家業よりも芸術面にその才能を発揮し、その活動は後世の日本文化に大きな影響を与えた。
 書は近衛信尹、松花堂昭乗とともに「寛永の三筆」のひとりと称され、 「光悦流」 の祖と仰がれる。角倉素庵に協力して出版した 「嵯峨本」 や、俵屋宗達の下絵に揮毫した 《鶴下絵三十六歌仙和歌巻》 (重文)などがある。また蒔絵や彫刻の作品も残し、国宝 《舟橋蒔絵硯箱》 は代表作。茶の湯は古田織部、織田有楽斎に学び、千宗旦とも深く関わり奥義を極めた。

 元和元 (1615) 年)、父 光二と昵懇で、光悦にも目をかけていた徳川家康より洛北・鷹峯 (現在の京都市北区鷹峯光悦町など) の地を拝領。丹波と京を結ぶ山国 (やまぐに) 街道が通る東西約360m、南北約760mの土地であったが、辻斬りや追いはぎなどが出る用心の悪い場所であったという。当時の本阿弥家の屋敷は洛中上京の「本阿弥辻子」にあり、「体のいい洛中所払い (追放)」とも思われるが、光悦は一族縁者をはじめ、様々な工芸に携わる多くの職人や使用人と共に住居を構えて自分の「理想郷=工芸村 (光悦村)」を築いた。

本阿弥光悦 墓所

 樂家とも交流のあった光悦は、鷹峯に移り住んだ頃から作陶を本格化させ、名作と言われる茶碗を作った。なかでも、光悦の娘が嫁ぐ際に振袖に包んで持参した楽焼白片身変茶碗 《銘 不二山》 は、光悦茶碗の代表作としてのみならず、和物茶碗中の白眉とされ国宝に指定されている。

 光悦が邸宅とは別に建立した「本阿弥家の位牌堂」は、彼の死後、日蓮宗「光悦寺」と号し今も鷹峯に残る。

<参考資料>
・ 『本阿弥光悦翁旧跡 光悦寺縁起』 大虚山 光悦寺            ・  「国指定文化財等データベース」 文化庁
・ 『本阿弥光悦とは何者だったのか? 東博の特別展で覗くその「大宇宙」』  橋爪勇介 文・撮影 (ウェブ版「美術手帖」, 2024.1.16)
・ フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』