新薬師寺 (奈良市高畑町) (1)

奈良

(宗派) 華厳宗 (山号) 日輪山 (本尊) 薬師如来
 * 新薬師寺の「新」は、霊験が「新たか」という意味で、「新しい」薬師寺ということではない。
(西国薬師四十九霊場六番札所・大和十三仏霊場七番札所)
(アクセス) JR・近鉄奈良駅から市内循環バス10分「破石町」下車、徒歩10分程
 今回は「春日大社本殿」から春日大社の森の小径を南下。途中「山の辺の道碑」を見て坂道を上ると新薬師寺の東門前に出る。春日大社の森はとても静かで心地良く、途中では散歩中(?)のシカにも遭遇。白毫寺や高円山にもさほど遠くないこのあたりは、かつては春日大社の神官の住む社家町だったという。

【歴 史】

新薬師寺 拝観の栞より

(前史) 天平17 (745) 年、聖武天皇は紫香楽宮 (現・滋賀県甲賀市) から平城宮に戻り、すでに始まっていた大仏造立も再開された (現 東大寺)。しかし天皇自身は体調を崩していたため、天皇の病気平癒を願い都を中心として「薬師悔過 (けか)」の法要が行われ、薬師如来七軀の造立と薬師経七巻の写経が都及び諸国に命じられた。

 天平19 (747) 年 以上のような経緯があり、光明皇后は聖武天皇の病気平癒を祈願して春日山・高円山の麓に「新薬師寺」を建立し、七仏薬師像を造立 (『東大寺要録』による)。当時「新薬師寺」は、「香山薬師寺」または「香薬寺」とも呼ばれていたという。*1
 天平勝宝4 (752) 年 4月 東大寺で大仏開眼供養会が営まれる。
  *1天平17年 (745) 年に、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して建立したという別の伝承もある。また、「新薬師寺」と「香山薬師寺」・「香薬寺」との関係については、未だに確定されてはいないようだ。
 天平勝宝8 (756) 年 この年成立の『東大寺山堺四至図』には、「新薬師寺堂」として「七仏薬師金堂」が描かれており、造営が完了したことがわかる。(聖武天皇 崩御)
 宝亀11 (780) 年 落雷により西塔が焼亡 (『続日本紀』による)
 応和2年 (962) 年 大風で「七仏薬師金堂」等堂舎転倒倒壊 (『東大寺要録』による)。 これ以後、寺勢の回復は困難となる。

 治承4 (1180) 年 平重衡の南都焼討により東大寺、興福寺は甚大な被害を受けるが、新薬師寺は焼け残る。

東門

 鎌倉時代   華厳宗中興の祖 明恵上人、解脱上人貞慶が一時入寺し、復興に努める。東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とする現在の伽藍がほぼ整備された。
 慶長7 (1602) 年 徳川家康が「新薬師寺」に百石の寺領を安堵。
 元禄11 (1698) 年 徳川綱吉の生母 桂昌院の尽力により、本尊薬師如来像、十二神将像の修理を行う。

 2008年 奈良教育大学の特別支援学級校舎の改築に伴う埋蔵文化財調査が行われる過程で、新薬師寺の大型基壇建物遺構が発見される。

【境内概観 ①】
<南門 (山門, 重文)>
 駐車場すぐ横に建つ山門 (表門) は、本瓦葺・切妻造のどっしりとした四脚門。鎌倉時代の復興時に建てられた門で、重要文化財。
 山門前に立つと、石畳の参道が堂々とした天平建築の「本堂」正面まで続く。中央には室町時代の石灯籠。なんともスッキリとした佇まい。

<本 堂 (国宝)>
 桁行7間、梁間5間、入母屋造、本瓦葺の本堂は、創建当初より唯一残る建築物で国宝。勾配の緩い堂々とした屋根と、正面の中央3間の戸口そして両側の白い漆喰壁がなんとも印象的で美しい。もとは修法を行するための堂宇であったという (食堂であったとも)。
 本堂への入り口は西側。内部は40本の円柱の柱で支えられ、化粧屋根裏天井となっている。堂内全体の骨組みを見ることができ、なかなか興味深い。中央には円形の土壇 (高さ約90cm, 直径約9m) が築かれ、壇上中央には御本尊「薬師如来坐像」(国宝) が南面して安置されている。そしてその周りを、奈良時代作の塑像の十二神将 (補作で木造の波夷羅大将以外は国宝) が、各々武器を手にして薬師如来を守護している。
 本堂に窓がないため堂内全体がほの暗い感じがする。しかし本堂を外側から見ると、東側の扉にステンドグラスが嵌め込まれているのがわかる。「国宝の建物にステンドグラスを施すことができるのか?」そんな素朴な疑問が湧く。

ステンドグラス

 「西洋の教会のステンドグラスの荘厳さに心惹かれた前貫主が、「心豊かな世紀」への願いを込めてステンドグラス設置を思い立ったという。しかし本堂が国宝であるため、まずは県文化財保存課に調査を依頼。2002年10月に文化庁より「釘などを使わないのであれば、建物への影響は軽微」として設置許可が下りる。2002年11月、奈良市在住のステンドグラス作家 飯村直美氏が制作したステンドグラス「瑠璃光」(縦約2m, 横1m) が、本堂東面に新たに作られた木の枠組みに嵌め込まれた。
 「東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来の世界を、東からの瑠璃光で満たされた荘厳な空間にしよう」という貫主の思いがあるという。
 設置当初は東側の扉が開けられ、ステンドグラスから差し込む外光が堂内を彩っていたようだが、現在は扉は閉じられている。ステンドグラスの設置に関しては賛否両論あるようだが、これも “諸行無常" か …。

<鐘楼・梵鐘 (共に重文)>
 入り口を入ってすぐの右手に、とても大きな「袴腰 (はかまごし)」の鐘楼がある。桁行三間、梁間二間、入母屋造で本瓦葺の鐘楼は、鎌倉前期のもので重要文化財。どっしりとした白漆喰塗りの袴腰が印象的。また、この鐘楼の中に掛けられている銅製の梵鐘 (口径104cm) は、天平時代に鋳造されたもので、やはり重要文化財 (通常非公開)。元は「元興寺」にあったが、鎌倉時代に元興寺の鐘楼が焼失してしまったので新薬師寺に移されたと言われている。
 この元興寺ゆかりの梵鐘には、平安時代の説話集『日本霊異記』に、元興寺の大力の小僧 (後の道場法師) の鬼退治の伝説が残る。この説話を裏付けるかのような傷 (鬼の爪痕) が、梵鐘に残っているという。

 鐘楼北側には小さな池があり、池東に竜王社が建つ。竜王社には石橋が架けられているが「危ないので渡らないで下さい」の注意書き。寺院の維持も大変そう。

<東門 (重文)>

東門 屋根裏

 南門より古く平安後期から鎌倉時代初期にかけてのもので、重要文化財に指定されている。棟門、切妻造の本瓦葺。現在は四脚門のようだが、当初は二脚の棟門だったと推定されている。よく見れば、本柱の上が二つに割れて板蟇股を挟む珍しい様式で、鎌倉時代初期の手法を示しているとのこと。普段は閉じられている。

 

  いにしへの 奈良の都の 古寺の 軒端の緑 きらめき ゆれる  (畦の花)

<参考資料>
・ 新薬師寺 拝観の栞・website           ・  「国指定文化財等データベース」 文化庁
・ 『新薬師寺旧境内の調査と復元』 金原 正明 著  (「新薬師寺旧境内展:蘇る幻の大寺院」 於:奈良教育大学教育資料館)
・ 星のまち交野 2003.2.9(日)  「奈良県文化会館から奈良公園・高畑を歩く」