紫式部墓所・小野篁卿墓 (北区西御所田町)
堀川北大路を少し下った西側、島津製作所 紫野工場の北側に、『源氏物語』の作者 紫式部の墓所 と冥土通いで知られる 参議 小野篁 (おののたかむら) の墓所 が並び建つ。交通量の多い堀川通に面した入口の向かって右には、「紫式部墓所」 の石碑、左には 「小野篁卿墓」 の石柱がある。
昨年のNHK大河ドラマ「光る君へ」放送を機に、地元ではこちらの墓所もきれいにされたようで、生い茂っていた木々も伐採されて明るい空間となっていた。
手前 (東側) に「小野相公」の墓があり、傍に「参議小野公塋域碑」も建つ。奥 (西側) には、「紫式部墓」。きれいな花が供えられた祭壇は、最近新しくされたように思われる。塀際に「紫式部顕彰碑」。墓所の後方 (北側) には二つの小さな墳丘があり、それぞれの墓所を供養するように五輪塔が建っている。
【「参議小野公塋域碑 (さんぎおのこうえいいきひ)」について】
この石碑は、小野篁末裔の元金沢藩士横山政和氏により、明治2 (1869) 年に建立されたとのこと。碑文は金田清風氏により、大意は以下のよう。
「横山氏は小野篁公の四十四世子孫で、大名前田家に仕えることができたのも先祖のおかげと考えている。先祖篁公の墓所は京都の西の郊外にあると聞き、本家の隆淑氏 (四十六世) に捜してもらい、紫野にあることがわかった。
石碑を建てるために調査し、次のようなことがわかった。長らく放置されていた墓に、寛政年中 (1789 -1801) に秦某が「小野相公墳」と記した石標を建て、通路を作った。墓は塚の西北部分が失われ二つの塚に見えることから、近隣の人々は一方は紫式部の墓だと言うようになっていたが、時代も違い、関係も無い人物だから理屈に合わない。
横山氏は、石の柵を新造し墓地を補修し、石標を墓所への通路の入口に移した。秦氏は定めし徳ある人格者で、今後も秦氏のような人々が面倒を見ていけば、墓は将来にわたり保存されるだろう。」
【「紫式部顕彰碑」について】
平成元 (1989) 年5月、大阪府の篤志家 近藤清一氏の助力により顕彰碑が建立された。これを機に紫式部の業績を国内外に紹介する「紫式部顕彰会」も発足。文学博士 角田文衞氏を撰者とする碑文の大意は以下のよう。
「紫式部は、藤原為時を父として天延元年頃に生まれる。祖父・父ともに歌人であったことから、幼時より学芸に親しみその才能を認められた。長保元年、藤原宣孝の妻となり娘 賢子を産むが、同三年に夫を喪う。
寛弘三年、一條天皇の中宮 彰子 (左大臣 藤原道長の長女) に仕え、父の官名に因み式部と称した。式部は中宮に漢文学を教授する傍、『源氏物語』の執筆に励み、寛弘六年頃完成。『源氏物語』は執筆当時から宮廷社会においてもてはやされ、女主人公「紫の上」に因み彼女は「紫式部」と呼ばれた。
歿年は長元四年とみなされ (『河海抄』)、その墓は雲林院の塔頭 白毫院の南、すなわち北区紫野西御所田町に存したと伝わるが、この所伝には信憑性が多い。
『源氏物語』は長らく国民に親しまれ、式部の名は海外でも知られるようになり、物語は次々各国語に翻訳された。1964年、ユネスコは彼女を「世界の偉人」の一人に選んだ。
なお、紫式部の居宅 堤第は、平安京東郊の中河、すなわち廬山寺のある上京区北之辺町のあたりである。また後冷泉天皇の乳母で、従三位に叙された歌人 大弐三位とは、娘 賢子のことである。」
【小野篁と紫式部の墓所が隣り合って建つのは何故?】
「紫式部顕彰碑」にあるように、『源氏物語』は当初から貴族を中心に好評を博し、写本により多くの人々に読まれた。しかしその一方で、仏教における戒律「五戒」の一つに「不妄語戒」、すなわち「嘘をついてはいけない」という戒があるが、『源氏物語』のような真実ではない架空の物語を創り、人心を惑わすことは、戒に反するとも信じられたようだ。例えば平安時代中期頃、菅原孝標女が書いた『更級日記』には、『源氏物語』に関連して次のような記述がある。「ある時『源氏物語』を読み耽る彼女の夢に高僧が現れて「法華経五の巻をとく習へ」と警告。物語に耽溺してきたことに罪悪感を覚えた筆者は、以後仏事に勤しむようになった。」
平安も後期になると「紫式部は狂言綺語の罪で地獄に堕ちた」という信仰から、彼女を苦しみから救うとともに『源氏物語』に親しむ者の罪障をも滅するために 「源氏供養」 なる法会が行われるようになった。具体的には、法華経二十八品を結縁者が一品ずつ写経・供養する法会であったようだ。
一方、小野篁は「閻魔大王の裁判を補佐していた」と言い伝えられる人物。「源氏供養」 の広まりとともに、死後は地獄に落ちたとされる紫式部を救済するため、地獄の役人である小野篁の傍に墓を建てて供養したのではないかと伝わる。因みに、紫式部が晩年を過ごしたと言われる「雲林院白毫院」(廃寺;現在は江戸時代に再建された「雲林院」のみが墓所の西にある) が、現在の墓所付近にあったらしい。
賑やかな堀川通にありながら、墓所に一歩足を踏み入れると静寂な空間が広がる。周囲が木々に囲まれているためか、鳥たちも羽を休めによく来るようで、篁と式部も今は安らかな眠りについているのかもしれない。
<参考資料>
・ 「京都のいしぶみデータベース KI063」 (フィールド・ミュージアム京都, 京都市歴史史料館)
・ 『紫式部について:紫式部顕彰碑より』 社団法人「紫式部顕彰会」 website
・ 『「御法」の物語としての源氏物語:源氏供養の発生と結縁の心性』 牧野 淳司 著 (古代学研究所紀要 第27号, 明治大学古代学研究所, 2019)