椿寺「おたふく阿弥陀さま」を拝す
正月三が日のみ参拝できるという 「地蔵院 (椿寺)」 の御本尊「五劫思惟阿弥陀如来」と、普段は御前立を堂の外から拝している「十一面観音菩薩立像」が “第59回京の冬の旅" で公開されると知り参拝。

【まずは御本尊に参拝】
初めて上がる本堂はそれほど広くなく、内々陣中央の厨子の中で静かに両の手を合わせて坐す御本尊「五劫思惟阿弥陀如来坐像」(像高106cm、江戸期作) がよく拝観できる。「五劫思惟阿弥陀」とは、阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩であった時、衆生救済のため五劫という計り知れないほどに長い間思惟した時の様子を造形化したもの。『無量寿経』巻上の「具足五劫、思惟攝取 莊嚴佛國 清淨之行 (五劫を具足して、荘厳仏国清浄の行を思惟し摂取す)」の一文を典拠としている。
長く伸びた螺髪がまるで鬘のように、下ぶくれのぽっちゃりとした女性的…? いや小さな目鼻立ちはむしろ幼児を思わせる …お顔を包む。伏し目がちに見えるが、こちらが座って視線を向けると優しく穏やかに見つめられているように感じられる。法衣は通肩にまとい、結跏趺坐して合掌印を結ぶ。その親しみある像容から「お多福 (おたふく) 阿弥陀」の愛称で呼ばれているようだ。
合掌する阿弥陀如来像は珍しいが、東大寺勧進所の「阿弥陀堂」に安置される「五劫思惟阿弥陀如来坐像」(重文) と衣文の像容も含めとてもよく似ている。東大寺の像は、南都焼討後の東大寺復興に尽力した重源上人が宋から将来したと伝わる。一方地蔵院寺伝では、江戸期に寺が浄土宗になった際に、ご本尊が「地蔵菩薩立像」から重源上人ゆかりの現在の「五劫思惟阿弥陀如来」に改められたという。真偽のほどはよくわからないが、重源上人諸縁の仏像であることは確かなのだろう。
また江戸時代、当寺には、『仮名手本忠臣蔵』に登場する義商「天川屋儀兵衛」のモデルとなった大阪の商人で、晩年に松永土斎と称した 「天野屋利兵衛」 が隠棲していたと伝わり、本堂裏にはその墓地もある。今回の特別公開では、利兵衛の木像・位牌に愛用の算盤 (「赤穂御用所天野屋」の銘あり)、また大石内蔵助と天野屋利兵衛の関わりを記した「天野屋利兵衛直之伝」も本堂で展示されている (通常は赤穂浪士討ち入りの日の12月14日のみ一般公開)。
【続いて観音堂へ】


平安時代の慈覚大師円仁 (第三代天台座主) 作と伝えられる「十一面観世音菩薩立像」(高さ五尺三寸 (約160cm), 一木造り) には、平安時代初期の頃の仏像の特徴が窺える。垂らした右手に錫杖を持ち、左手には蓮の花の入った水瓶を掲げて蓮台の上にすっくと立つ。岩座ではないが「長谷寺式十一面観音菩薩立像」。翻波式衣紋を纏った姿は、どっしりとして安定感があるが、首から胸にかけて飾られる瓔珞は優しげな雰囲気をもたらす。ほっそりと閉じたような目は、拝観者が座って見上げれば、視線が合って見つめられているように感じられる。見れば見るほど魅力ある観音菩薩像。向かって左側に「雨宝童子」、右側には「春日龍神」を従えていらっしゃるが、どちらも極彩色の鮮やかな立像。
*洛陽三十三所観音霊場巡礼 第三十番札所となっている。
御詠歌:かんのんへ まいるおてらを たずぬれば なにかわばたの じぞうどうとや
観音堂横には「辨才天」「椿大神」「鎮守社」がお祀りされている。
【旧北野天満宮多宝塔扉絵】

観音堂には、十二天の内の二尊「閻魔天」そして「火天」が描かれた2枚の扉絵が安置されている。これらは元は旧北野社 (現 北野天満宮) にあった多宝塔の扉だったという。
江戸期以前の北野天満宮は神宮寺で、江戸時代後期に秋里籬島が著した京都の地誌『都名所図会』巻六を見ると、天満宮には「朝日寺、毘沙門堂、経蔵、多宝塔、鐘楼」などの仏教関連の建物があることがわかる。しかし、明治維新時の「神仏分離令」により、神社から仏教的要素は悉く排除されることとなった。その時に取り壊された北野天満宮多宝塔の扉が、当寺地蔵堂の裏扉として再利用されたという経緯のようだ。裏扉であったため、二尊はほぼ人の目に触れることもなく地蔵尊を守護していたが、剥落などの損傷がひどくなり2019年2月に修復された。以後は観音堂にて安置。
全身赤色の「閻魔天」は厳しい顔をして、左手には檀拏杖(だんだじょう, 人頭幢 “にんずどう" とも) を持つ。杖の先には、半円形の皿のようなものの上に人の頭が載る。皿は「浄玻璃の鏡」の原型と言われる。一方煩悩を焼き尽くすとされる「火天」は、文字通り全身を炎に包まれている。しかし、長い髭を蓄えた老人の顔相の仙人からは、なぜか優しさを感じる。
【地蔵堂「鍬形地僧尊」】

椿寺の元の御本尊「鍬形地僧尊」が祀られる地蔵堂にも参拝。扉越しからの拝観だが、今回は堂内の照明が灯されていてお顔もよく見える。右手に錫杖、左手には宝珠を恭しく持ち、キュッと引き締まった口元が印象的。金地と青色が目立つ衣を纏い、胸には法輪のある美しい瓔珞を付けていらっしゃる。頭には赤と白の柔らかそうな被り物。これは「鍬形地蔵」の名の由来となった伝承にある「頬の鍬の傷」が痛まないようにとの温かい配慮か。
そう言えば、日蓮宗の寺院では、御会式の頃から春彼岸あたりまで日蓮聖人像に「綿ぼうし (おわた)」をつける慣わしがある。その由来は、日蓮聖人が「小松原法難」の襲撃により頬に傷を負った時、通りがかった老女が傷口が痛まないようにと真綿を差し出したという伝承によるらしい。地蔵尊の被り物も、こうした伝承に影響されているのかもしれない。
* 洛陽48所地蔵尊霊場 第12番札所 となっている。
御詠歌:津の国の 昆陽の古寺 ふりすてて 九重てらす 法のともし火

本堂前の「五色八重散椿」が有名で、お庭や墓地にも様々な椿が咲き誇る。ただ、今年は開花が遅く見頃にはもう少しかな?
<参考文献>
・ 「椿寺だより」 ・ Web版 新纂浄土宗大辞典
・ 『仏説無量寿経』 巻上 p014 真宗聖典検索サイト 真宗大谷派 (東本願寺)
・ 『或る五劫思惟阿弥陀如来像のカタチ』 熊谷 貴史著 佛教大学 研究活動紹介
・ 華厳宗大本山東大寺 website 「勧進所」 ・ 京都歩く不思議事典 「洛中 北野天満宮」
・ 「天満天神宮 (北野天神)」 (『都名所図会』 巻之六 秋里籬島著, 天明六(1786)年再板本 「都名所図会データベース」 国際日本文化研究センター)
・ 『北野天神古絵図ならびに古記録』 日本の塔婆 ・ 『綿帽子の由来』 日蓮宗尾張伝道センター