印空寺 (右京区山越西町)
西山浄土宗の「月江山 印空寺」へは、市バス「山越」バス停から歩いて2, 3分。西200m先には広沢池、道路を隔てた南側には、"桜守"として有名な佐野藤右衛門氏の植藤造園がある。印空寺は豊かな緑に囲まれてひっそりと建つ。
【歴 史】
始まりは江戸中期頃。美濃国(岐阜県)の立政寺から入洛した印空上人が、仁和寺第23世門跡・覚隆法親王より寺領を賜って元禄元年(1688)に七堂伽藍を建立。その後西山浄土宗の了海上人が中興し、地元の人々に親しまれて寺勢も盛んになった。
明治時代、神仏分離令後の廃仏毀釈により荒廃し、永く無住となる。昭和45年(1970)に圓空瑞元上人が晋山し、寺の復興に努める。昭和49年(1974)に鐘楼建立。平成3年(1991)には、本堂、山門、庫裡が再建され、境内も整備された。
【仏 像】
本尊「阿弥陀如来」:地名より「山越の阿弥陀」と称される。脇侍仏の観音・勢至両菩薩は昭和の仏師・松久朋琳作。三千院・往生極楽院の脇侍仏の模刻とも言われる。
「大黒天像(御所大黒天神、甲子大黒)」:室町時代の第104代・後柏原天皇は、応仁・文明の乱の戦禍や疫病流行を憂慮。甲子の年(1504年)、聖夢に大黒天神が現れ、その姿を彫らせて救世祈願をしたという。以来宮中で祀られていたが、明治維新の東京遷都の際にその大きさと重さのために京都に残されたようだ。その後、持ち主を変えて旧御室御所ゆかりの印空寺に寄進された。蓮台でなく米俵の上に立つ「甲子型」の第一号との説もあるらしい。
【境 内】
「二河白道」の石庭:本堂前には、中央の参道を挟み、両側に白砂と石組みで構成された枯山水式庭園がある。作家の冨永航平氏が「二河白道(にがびゃくどう)」と名付けたという。「二河白道」とは、浄土教で、浄土往生への道を、水・火の二河に喩えて解き明かしたもの。ニ河譬(にがひ)とも言う。唐の善導が『観経疏』で説いたのによる。印空寺の参道は、二河に挟まれた往生の白道を表現しているのだろうか。
多羅葉(たらよう)の木(モチノキ科):石庭の右手に立つ「多羅葉樹」は、樹高17m、樹齢は300年を越すとも言われ、京都市の指定保存樹になっている。多羅葉の葉の裏側に針や釘などで傷を付けると、樹液が滲み出して黒く残るという。その性質がインドで経文を書くのに用いられた「貝多羅葉(ばいたらよう)」の原材料であるヤシ科の樹木に似ていることから「多羅葉」と名付けられたようだ。また文字を書くことができることから「葉書」の語源とも言われ、郵便局の木に定められてもいる。ツヤツヤとした緑色の肉厚な楕円形の葉が元気よく育っている。
印空寺古墳:開山堂の東側に横穴式円墳の「印空寺古墳」がある。緑の樹々の中に隠れるように小さな穴があり、北側の細い石段を登っていくと古墳跡頂上。そこには開山・印空上人の墓地。嵯峨野には古墳が多い。
旧田村邸の蹲踞(つくばい):本堂東側に置かれた鞍馬石・袈裟造りの蹲踞は、歌舞伎・映画俳優で、「阪妻(バンツマ)」として親しまれた坂東妻三郎(俳優・田村高廣ら兄弟の父)の邸にあったもの。その邸は、かつて太秦広隆寺の西側にあったようだ。板東が手離した後、邸は30年ほど映画関係者の旅館として利用されるも、その後廃業。邸が取り壊されるにあたり、蹲踞は印空寺の檀家の元に移され、本堂新築に際して寄進された由。
決して大きくはないが、手入れの行き届いた心地よいお寺。境内には多羅葉の木以外にも、紅枝垂れ桜、シデコブシ、カエデ、菩提樹など様々な樹木が植えられている。四季折々に訪れてみたいお寺だ。