革堂(行願寺) (中京区寺町通竹屋町上ル行願寺門前町)
丸太町通と寺町通の交差点を南に数分下がるとまず下御霊神社があり、隣り合うようにして革堂(こうどう)が見える。正式には、「霊麀山行願寺(れいゆうさん-ぎょうがんじ)」と号する天台宗の寺院。
西国三十三所観音霊場 第十九番札所、洛陽三十三所観音巡礼 第四番札所そして都七福神めぐりの「寿老神」のお寺。参道両脇には蓮の花の鉢が多く置かれ、10月初旬には檀家の人達によって育てられた京都古来自生種で、準絶滅危惧種に指定されている「藤袴」が公開されている。地域の人に親しまれている開かれたお寺のようだ。
【歴 史】
古くは一条通新町の西にあり、「一条北辺堂」と呼ばれたが、鴨川の氾濫で倒壊。(山門前には「一条かうどう」の石碑が残る)
平安時代の寛弘元年(1004)に、一条天皇の勅願により、行円上人が復興。常に千手大悲陀羅尼を持し、観音像を刻むことを願っていた行円は、ある夜の夢で、一人の僧に霊木を送ると告げられた。果たして翌朝、行円を訪れた僧は「鴨杜の傍に苔蒸した槻(つき)の木(ケヤキ)があり、六斎日毎に千手の神咒を誦する声が聞こえる。昔この木には鴨大神が降臨された。」と語る。これを聞いた行円は、鴨社の神官にその木を乞い受けて本尊を彫ったという。また、子を孕んだ母鹿を射止めてしまったことを悔いた上人が、それ以後いつもその皮をまとって鹿を憐れみ、いつしか「皮聖」と呼ばれるようになったことから、お寺は「革堂(こうどう)」とも呼ばれるようになった。その後、行円の弟子・仁弘法師が、この神木の余材で西山「良峯寺」(現・善峯寺)の本尊・千手観音を作ったという。
以来人々からの厚い信仰を受け、町人の自治的な防御組織の集会所・町堂として栄えるが、度重なる火災や豊臣秀吉の都市改造の影響により寺地を転々とする。
宝永5年(1708)の大火の後、当地に移された。
昭和44年(1969)、中島湛海(なかじま・たんかい)尼(天台宗で女性初の大僧正)が住職となり、戦後荒廃していた寺を再興。
【本 堂】
山門をくぐれば本堂はもう目の前。正面に立派な軒唐破風の向拝があり、さらに奥にも唐破風が見える。蟇股や内陣の格天井には、豪華な彫刻が施され、本尊「十一面千手観音菩薩立像」のお顔をかすかに拝むこともできる。文化12年(1815)の再建で,近世天台宗本堂として価値が高いとして、京都市指定登録文化財になっている。
【寿老神堂】
日本最古「都七福神まいり」の一つ「寿老神」が安置されている。安土・桃山時代のお堂とのこと。現在ご本尊は宝物館に遷され、お堂には分身が安置されている。
寿老神(人)は道教の神仙で、老子の化身の神ともされる。人命の長寿を記した巻物を吊した杖を手にし、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を伴う。お堂横には新しい七福神の石像もある。
【鎮宅霊符神堂】
鎮宅霊符(ちんたくれいふ)とは、「太上神仙鎮宅七十二霊符」「太上秘法鎮宅霊符」などと呼ばれる72種の護符で、中世初期に中国より伝来した家内安全のための祈禳。この霊符を司る神が鎮宅霊符神で、元々は道教の北辰北斗信仰が日本に伝えられ、陰陽道とも深く関わるようになったようだ。また、インドの菩薩信仰が北辰北斗信仰と習合して、仏教の「妙見信仰」となって同様に日本に伝来した。
【五輪塔】
境内の西北隅に「加茂明神石塔」の大きな五輪石塔がある。江戸時代後期の『都名所図会』には、山門の北側に「加茂明神」が描かれている。鴨社の槻の木で本尊を造ることができた報恩のため、加茂明神を勧請して塔を造立し祀ったとされる。かつて石塔前には鳥居が建てられていたようだ。
【幽霊絵馬の伝説】
お盆の期間にだけ公開される『幽霊絵馬』と呼ばれる絵馬が宝物館にある。その絵馬には子守をする少女が描かれているが、この絵馬には次のような伝説があるという。
「江戸時代、革堂近くの質屋に子守奉公する少女がいた。お寺で子供をよく遊ばせていた少女は、いつしか御詠歌を憶えてよく口ずさむようになった。ところが熱心な法華信者であった主人は、これがどうしても気に入らず、ついに少女を折檻して殺してしまう。主人は少女の亡骸を密かに庭に埋め、彼女の両親には行方不明になってしまったと嘘をついた。心を痛めた両親は革堂に参籠し、観音菩薩に娘の行方を教えてくれるようにとひたすら祈った。ある夜のこと。両親の夢枕に娘が現れて、自分は主人に殺されて庭に埋められていると言う。驚いた両親が目を覚ますと、娘が立っていた所に母親が娘に持たせた手鏡が置かれていた。夢告通り質屋の庭から少女の亡骸が見つかり、主人は処刑された。その後娘を手厚く葬った両親は、彼女の成仏を祈願して娘の姿を絵馬に描き、革堂に奉納したという。」
<御詠歌>
花を見て いまは望みも 革堂の 庭の千草も 盛りなるらん
*参考文献:『都名所図会』