下御霊神社 (中京区寺町通丸太町下る)
下御霊神社は、寺町通と丸太町通の交差点のすぐ南、京都御所の南東に位置し、古より御所の産土神として尊崇されている神社。朱い大きな鳥居をくぐるとすぐに、古いが立派な表門が構えている。それほど広い神社ではないが、歴史を感じさせる拝殿、本殿が参拝者を迎えてくれる。手洗舎には、京都御所(御苑)の地下水を汲み上げ復活させたという名水「下御霊香水」がある。
【御祭神】
貞観5年(863)に神泉苑御霊会に祀られた六座に二座を加えた八座が祀られていて、八所御霊の御霊社になる。すなわち、祟道天皇(早良[さわら]親王、桓武天皇の異母弟)、伊豫親王(桓武天皇皇子)、藤原大夫人(伊豫親王の母・藤原吉子[ふじわらのよしこ])、藤大夫(藤原広嗣)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文屋宮田麻呂)、吉備聖霊[きびの-しょうりょう](六座の御霊の和魂[にぎみたま])、火雷天神[からいのてんじん](六座の御霊の荒魂[あらみたま])の八座。
【歴 史】
その始まりは詳らかでなく、平安初期に愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に祀られていたとか。また、承和6年(839)、伊豫親王とその母・藤原吉子の慰霊のために出雲路に創建されたとも。御霊神社(上御霊神社)の南に位置し、「下御霊神社」と呼ばれた。
鎌倉時代:現在の新町通出水辺りに遷る
室町時代:応仁・文明の乱で焼失し、北山花園村に避難
天正18年:豊臣秀吉の都市整備に伴いこの地に遷る
江戸時代:霊元法皇が参詣し、願文を納めて京都御所の産土神とされるが、天明の大火により再び焼失。寛政3年(1791)、光格天皇により内侍所が寄進され本殿とする。
【表門・本殿・拝殿】
本殿は天明8年(1788)に仮皇居の聖護院宮に造営された内侍所仮殿を、寛政3年(1791)に移建したもの。本殿・幣殿・拝所・南北廊が,屋根を交錯させて一連の内部空間をつくっていて、御霊社に特有のもので造営年代も古い建築物として、京都市指定有形文化財になっている。また表門は、旧建礼門を移築したという。
拝殿は寛政10年(1798)に建立された。かつては檜皮葺だったが、明治時代に瓦葺になる。京都市指定有形文化財。
【末社 垂加(すいか)社】
江戸時代前期の儒者・神道家である山崎闇斎(あんさい,1619-1682)が、末社猿田彦社の相殿に祀られている。闇斎は京都に儒学を講じる「闇斎塾」を開き、また従来の神道と儒教を統合(神儒融合)して、独自の垂加神道を創始。幕末の尊王攘夷思想に大きな影響を与え、その門下には正親町公通、浅見絅斎、渋川春海などがいる。闇斎は自らの心神を生祀し、「垂加霊社」とした。その後、門下の下御霊社神主 出雲路信直が、猿田彦社に合祀したという。