椿寺 地蔵院 (北区大将軍川端町)
一条通りを西大路通りから東に向かって散策し始めたら、「椿寺 地蔵院」の山門が目に留まった。あの「五色の八重散椿」で知られるお寺!山門横には、「義商天野屋利兵衛之墓・豊公愛樹五色八重散椿」の石碑も。椿の季節はまだだけど、これもご縁かと参拝。
いただいた「椿寺地蔵院 いわれ」によれば、神亀3(726)年に、行基が聖武天皇の勅願により摂津(現・兵庫県伊丹市)の昆陽池(こやいけ)のほとりに建立したのが始まり。平安時代には衣笠山の南に移されるが、室町時代の明徳2(1391)年、明徳の乱で焼失。これを足利義満が惜しみ、金閣造営の余材で再建し、地蔵菩薩を奉安した。天正17(1589)年には、豊臣秀吉の命によって現在地に移されたとのこと。
山門を入るとまず正面に見えるのが地蔵堂。右手には東向きに本堂が建ち、その前庭に大ぶりな椿の木。本堂南側には観音堂。境内東側と西奥に墓地。大伽藍ではないが、参拝者を温かく迎えてくれそうな感じの「お寺さん」。
【本堂・本尊】
現在本堂に安置されている本尊は、「五劫思惟阿弥陀如来」。地蔵院は元は八宗兼学の寺院だったが、寛文11(1671)年、善曳和尚の時に浄土宗(知恩院の末寺)となった。その時に本尊も、東大寺の重源上人が招来し、善導大師作と伝わる現在の「五劫思惟阿弥陀如来」に改められた由。正月三が日のみ参拝可。
【地蔵堂】
元の本尊である地蔵菩薩立像(高さ六尺, 乾漆立像)が祀られている。「鍬形地蔵」「木納屋の地蔵」とも呼ばれているらしい。ふくよかな顔立ちで、頭にはいかにも柔らかそうな被り物をされている。彩色がよく残り、金箔もきれいだ。堂背面には、北野天満宮にかつてあった多宝塔の扉(桃山時代の作)が取り付けてあったとのことで、現在その扉は観音堂内にて展示。
ところで、寺伝によれば「鍬形地蔵」の呼称には、次のような伝承があるそうだ。
「地蔵院のある土地は、古くは大将軍村と言われ、田んぼに囲まれた村だった。ある年のこと。日照り続きで水不足になり、村人達は川の水を分け合って田に引いていた。ところがある男が強引に自分の田だけに水を引こうとしたので、村人達はどうしたものかと困り果ててしまった。そんなある日、一人の僧侶が現れて「自分勝手な振る舞いはやめなさい」と男を諭した。しかし男はこれに腹を立て、持っていた鍬で僧侶の顔を殴りつけてしまった。顔に怪我を負った僧侶は、怒ることもなく何も言わずにその場を立ち去った。不思議に思った男がその後をつけていくと、やがて僧侶の姿は、地蔵院の地蔵堂に消えた。男が地蔵堂の中を覗き込んでよく見ると、なんとお地蔵さまの頬に鍬の傷が…。すっかり改心した男は、それ以後自分の田だけに水を引くという身勝手はしなくなり、村人達はいつしか地蔵院の地蔵菩薩を「鍬形地蔵」と呼んで篤く信仰したという。」
【観音堂】
伝・慈覚大師作の十一面観音菩薩立像(高さ五尺三寸, 一木造り)が祀られている。右手は与願印、左手には蓮華の入る水瓶を持つ。全体に金箔がよく残っている。脇侍は雨宝童子、春日龍神。洛陽三十三所観音霊場第三十番札所。
【五色八重散椿】
本堂前の庭にある椿は、天正15(1587)年の「北野大茶会」で世話になった礼として、豊臣秀吉が加藤清正から献上された椿の一部を当院に寄進したもの。初代の椿は昭和58(1983)年に枯れてしまい、現在は樹齢約120年の二世が3月中旬頃から開花するとのこと。
1本の樹に赤・白など様々な色合いの花が咲き、散り際も花びらが1枚ずつ散るのが特徴。次は是非とも椿の季節に参詣しよう!)
【夜半亭巴人の墓】
地蔵堂東側の墓地入口付近に、与謝蕪村の俳諧の師・夜半亭巴人の墓がある。早野巴人(はじん)は、現・栃木県那須烏山市で生まれ、幼い頃に江戸に出た。俳諧の道を志していた巴人は、十代半ばで芭蕉の『奥の細道』の足跡を辿る旅に出て、後に宝井其角や服部嵐雪の門人となる。50代前後に京都に上って江戸俳諧を広めるが、晩年再び江戸に戻り日本橋石町(こくちょう)の夜半亭に居を定めて号を宋阿とする。墓石の後面には辞世の句「こしらへて あるとは知らず 西の奥」が刻まれている。
【天野屋利兵衛之墓】
毎年12月に入るとメディアで取り上げられる江戸元禄時代に起きた赤穂事件。『忠臣蔵』として赤穂浪士の吉良邸討ち入りまでが描かれる物語だが、天野屋利兵衛は人形浄瑠璃『仮名手本忠臣蔵』で、堺の商人「天川屋儀兵衛」として登場。一介の商人であるにもかかわらず武士にひけをとらぬ義侠心の持ち主として、「男でござる」の台詞とともに、以降庶民に愛される登場人物の一人となった。虚実入り混じった人物ではあるが、天野屋利兵衛なる人は確かに実在していて、後年京都に移り住んで松永士斎と改名。地蔵院でその生涯を終えたと伝えられている。観音堂の裏には、「天野屋利兵衛之墓」として、江戸時代と平成に再建された2つの墓石が並んでいる。
【キリシタンの墓】
1549年に鹿児島に上陸したスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが、日本各地でキリスト教の布教に努めたことはよく知られている。なかでも京都は「ミヤコ」と呼ばれて布教の中心地となった。1568年に入京した織田信長がキリシタンを庇護したこともあって、布教は拡大するが、江戸時代の禁教令によってキリシタン勢力は大きく衰退。京都市には、布教の状況を示すキリシタン墓碑が20基ほど出土していて、その分布は北野から西ノ京付近と東寺周辺に多いという(京都市埋蔵文化財研究所の資料による)。地蔵院の境内からもそのうちの1基が出土し、現在は「キリシタンの墓」として墓地に保存されている。キリシタン墓碑は、板碑型のものと、横置の蒲鉾型のものの2種類があるが、地蔵院のそれは蒲鉾型。手水鉢として使われていたらしい。
京都のお寺を訪ねると、幾層にも重なった日本の歴史を垣間見ることができて感慨深いものがある。と同時に、自分が生まれ育った国について、いかに知らなさすぎるかと思い知らされる。