厭離菴 (えんりあん) (右京区嵯峨二尊院門前善光寺山町)
嵯峨釈迦堂(清凉寺)の西門から西に向かってまっすぐ5分ほど歩いていくと、右手の小径角に「小倉山荘旧址厭離庵」の石碑がある。秋の特別拝観の折には、出入りする人も多いのでわかりやすいが、普段は何気なく歩いていると見過ごしてしまうような参道。両側を竹垣で仕切られた小径の敷石に導かれるように奥に進むと、小さな瓦葺きの門があり、その向こうに茅葺の屋根が顔を覗かせる。
【歴 史】
「厭離菴拝観の栞」によれば、「厭離庵」は平安後期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人の藤原定家の小倉山荘跡で、この地で「小倉百人一首」を編纂したという。その後荒廃していたのを、江戸中期に定家の子孫である冷泉家が修復し、霊元法皇から「厭離庵」の寺号を賜わる。安永(1772年)より臨済宗天龍寺派となり、開山は霊源禅師。明治維新後再び荒廃していたのを、明治43(1910)年に白木屋社長 大村彦太郎が仏堂と庫裡を建立。山岡鉄舟の娘 素心尼が住職に就き、以後尼寺となる。大正期には茶室「時雨亭」が新たに造られ、本堂も改修された。
決して広くはない敷地に、本堂、書院、時雨亭、庫裏が肩を寄せ合うかのように建ち、書院に面した南庭には左手の中門より廻遊路が設けられている。苔むす庭の其処此処には、歌碑や織部燈籠、また定家を偲ぶ五輪塔に「定家塚」などが配されている。敷かれた飛び石を辿って行くと、今も湧き出ているという風情ある「柳の井」の横を通り過ぎ、その少し先の石段上の本堂(仏堂)へと導かれる。秋には庭全体を覆い尽くすかのように植えられた楓の朱色が、まるで燃立つようにきれいだ。
【本 堂】
本堂中央には、上宮太子(聖徳太子)作とされる本尊「如意輪観世音菩薩」が安置されている。その両脇には、開山 霊源禅師、西行法師、藤原家隆、紀貫之の木像と、藤原定家、その子である為家と孫の為相の位牌が安置。
輪王座して思惟手の右手指を軽く曲げて頬に当てた姿からは、柔らかな温かさが感じられる。独特の宝冠を付けて、右に小首をかしげた顔は、まだ幼子のあどけなさが残るような穏やかな表情をしている。
この本堂は、昭和25(1950)年のジェーン台風で倒壊したものを、昭和28(1953)年に数寄屋大工・岡田永斉が再建したという。天井には「愛宕念仏寺」を再興した住職で仏師でもある西村公朝筆になる「飛天」。
【時雨亭】
大正12(1923)年、六世常覚尼の時、定家の山荘「時雨亭」に因んで茶席「時雨亭」が建立された。当時裏千家に出入りしていた数寄屋大工・岡田永斉の手になる。
平屋建て、茅葺屋根で四帖向切の席に苔寺の湘南亭を模した広縁。待合も設けられている。露地庭は、苔地に飛石が配されているが、苔の養生のため立ち入り禁止となっている。
【柳の井】
南庭園の東奥に古い井戸「柳の井」がある。現在も湧水しているというこの井戸は「硯の水」とも呼ばれ、定家が和歌を書く際に使い、子の為家も愛した水とされている。
【藤原為家卿之墓・定家卿墳遥拝所】
厭離庵の門に向かって右手に小さな公園がある。その公園の東側に「中院入道前大納言藤原為家卿之墓」と刻まれた石標。奥に続く細道を入って行くと、まず定家の子 為家の墓がある。石柵に囲まれた奥に、一本の木。その下に小さな墓石がポツンと時を刻んでいる。隣には為家の父親である定家を偲ぶ「定家卿墳遥拝所」が置かれている。まるで小倉山全体が定家の墳墓であるかのように…。
小倉山 しぐるるころの 朝な朝な 昨日はうすき 四方のもみぢ葉 定家(続後撰 418)
朝ぼらけ 嵐の山は 峯晴れて 麓をくだる 秋の川霧 為家(続拾遺 276)
定家が百人一首を編纂したとされる「小倉山荘(時雨亭)」の正確な場所は、実は未だわかっておらず、厭離庵以外にも常寂光寺や二尊院に「時雨亭」跡を示すいくつかの石碑がある。研究者の間では、定家の山荘は常寂光寺仁王門北、つまり二尊院南の付近にあり、厭離庵付近は僧蓮生(宇都宮頼綱, 藤原為家の舅)の中院山荘跡とする説を採る人が多いようだ。
《参考資料》
・「厭離庵」拝観の栞
・『嵯峨嵐山 : 小倉百人一首ゆかりの地』(財)京都市埋蔵文化財研究所(『京都歴史散策マップ : 文化財と遺跡を歩く』16)