鹿王院 (右京区嵯峨北堀町)
嵐電「鹿王院 (ろくおういん) 駅」を降りて南に数分歩いていくと、右手に「愛宕山」の石標とその隣に地蔵堂が見え、横には「鹿王院 徒歩1分」の道案内札がある。角を曲がってさらに数分西進すると、北側に「覺雄山」と書かれた扁額のある鹿王院山門が見える。山門両脇の瓦土塀が、古刹の趣を漂わせている。
竹林に囲まれた石畳の参道の両側は苔むし、さらに楓や天台烏薬などの樹木も多数植えられて、奥へと歩を進めるにつれ静寂さが満ちてくる。参道はやがて右へと参拝者を導くが、左手奥には二つの鎮守社が見え、北側には「舎利殿庭園」に通じる門がある。拝観は右手奥の中門から庫裡へと向かう。
【歴 史】
室町時代の康暦元(1379)年、足利三代将軍義満は「今年大病を患うが、宝幢如来を祀る伽藍を建立すれば寿命が延びるだろう」との夢告を受け、翌年、師・普明国師 (春屋妙葩) を開山として一寺を建立。当初は「興聖(禅)寺」と号されていたようだが、嘉慶元(1387)年には春屋妙葩の塔所として「鹿王院」も創建され「宝幢寺 鹿王院」と称されるようになった。「鹿王院」の名の由来は、創建時に野鹿が群れをなしていたからと伝わる。
室町時代前期には、京都十刹第五位に列せられるほどの隆盛を誇り、一休宗純も少年時代には当寺で維摩経の提唱を聴いたという。しかし、応仁・文明の乱により「宝幢寺」は天龍寺とともに焼滅。開山堂があった「鹿王院」のみ残り、「宝幢寺」の寺籍を継いだ。
安土・桃山時代には天龍寺の山外塔頭となり、慶長年間(1596-1615) の地震で「鹿王院」も荒廃。その後の寛文年間(1661-1673)、酒井忠知の援助により、その子・虎岑玄竹(こしんげんちく)が再興し、寺院として寺領・塔頭を抱えるまでに復興。その折に境内や庭園も大きく改修されたとのこと。
【客 殿】
庫裡の左手(西側)には客殿があり、客殿前には「舎利殿庭園」(平庭式枯山水庭園)が広がる。右手奥には嵐山を借景として舎利殿と本堂、その前には大きな木斛の古木がある。東側と南側は土塀で囲まれ、南東角には沙羅双樹の木。初夏には苔の上に白い花が散るのだろう。参道とは対照的に樹木が少ないこのお庭は、空が大きく開放的な気分になる。ただこの眺めも、宝暦13(1763)年に舎利殿が現在の位置に建立されてからのもので、室町時代の面影はほとんど残っていないようだ。
また客殿北側には、映画俳優・大河内傳次郎が寄進したという茶席「芥室(かいしつ)」とその茶庭「後庭」がある。枯山水のこの庭は、明治20年代頃に住職 峨山和尚によってまず作庭され、昭和に入ると茶席の移築に合わせて改修が行われたとのこと。石灯籠や飛び石の通路があり、楓なども植えられて風情あるお庭だ。因みに「芥室」は開山・春屋妙葩の別号。
【本 堂】
客殿から瓦敷きの歩廊を進むとまず本堂がある。江戸の延宝年間(1673-1681)に虎岑により再建されたもので、開山堂と仏殿を兼ねている。ほの暗い本堂に入ると、中央に安置された本尊の釈迦如来坐像と両脇の十大弟子像がまず目に入る。運慶作と伝わるが、確かに写実的で活き活きとした像だ。後檀右に開山・普明国師(春屋妙葩)像、その下に宝筐塔があり、左には開基・足利義満像が祀られている。
【舎利殿】
本堂からさらに歩廊を南に進むと舎利殿(駄都殿)に着く。当初は客殿東北にあったものを、宝暦13(1763)年に現在地に移したらしい。宝形造、単層の堂で、その中には鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が宋より招来したという仏牙舎利を納めた多宝塔が祀られている。
山門と客殿の扁額 (「覺雄山」,「鹿王院」) は足利義満の真筆といい、また「絹本着色夢窓国師像」(国重要文化財) など多くの文化財を所蔵する歴史ある寺院で、庭園は昭和62(1987)年に京都市名勝に指定されている。今回は残念ながら改修中の舎利殿は拝観できなかったが、秋のライトアップのオンシーズンを除けば、静かで落ち着いた寺院なので是非また訪れてみよう。
<参考資料>「鹿王院」拝観のしおり ・『京の庭を訪ねて』京都市都市緑化協会 HP