文徳天皇 田邑陵 (右京区太秦三尾町)
嵐電「鳴滝」駅から北西の方向、徒歩12, 3分ほどの所に「文徳天皇 田邑陵(もんとくてんのう たむらのみささぎ)」がある。近くには常盤野小学校や「京ノ道町公園」という小さな公園がある静かな住宅街。石垣沿いの石段を上って右折すると、真っ直ぐ伸びた参道の先の一段と高い場所に陵が見える。参道は「門徳池」を二つに分けるように築かれており、西側の大きな池は地元では「ひょうたん池」と呼ばれて親しまれている。「ひょうたん池」の西側には竹林があり、小高い山のような陵は鳥たちの憩いの場所になっている。
【文徳天皇(827-858)】
第55代天皇(在位 850-858)で、第54代天皇 仁明天皇の第一皇子。母親は左大臣 藤原冬嗣の娘 順子。
承和の変 (842年, 仁明天皇の皇位継承をめぐる事件で、後の藤原氏摂関政治の始まりとも言われる) で皇太子 恒貞親王が廃され、代わって皇太子となる。即位後、次の皇太子に紀名虎(きのなとら)の娘静子の産んだ第一皇子の惟喬親王をたてようとしたが、藤原氏の反対にあい、藤原良房の娘 明子が産んだ惟仁親王(後の清和天皇) を立太子する。
病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なく、政治の実権は藤原良房に委ねられた。
【文徳天皇陵と天皇の杜古墳】
文徳天皇の陵墓に関しては、平安時代に編纂された『三代実録』に、「天安2年9月2日、文徳天皇死去に際し大納言安倍朝臣安仁らが “山城国葛野郡田邑真原岡" に至り、山陵の地を定めた」と記されている。しかし中世以降、陵の所在地が不明となり、江戸時代には「天皇の杜古墳」が候補地とされるようになったらしい。
長らく文徳天皇陵とされてきた故にその名がついた「天皇の杜古墳」(西京区御陵塚ノ越町)は、近年の発掘調査により、古墳時代4世紀末頃の桂川右岸地域を統括した有力豪族の築造になることが明らかになってきた。
また宮内庁により陵墓と定められている現在地だが、「太秦三尾古墳」とも呼ばれ、横穴式石室のある古墳時代後期のものとみられる円墳で、文徳天皇の時代には合わないとする見方もあるようだ。