清凉寺 (嵯峨釈迦堂) (1) (右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

京都・寺社

仁王門市バスまたは京都バスを「嵯峨釈迦堂前」で下車し、西に3分ほど歩けば清凉寺の仁王門前に着く。すぐ近くには嵯峨豆腐「森嘉」のお店がある。「嵯峨釈迦堂」と呼ばれているように、ご本尊が釈迦如来の浄土宗知恩院派寺院。普段は静かで、付近の人達の散歩姿をよく見かける地域に溶け込んだお寺。

【歴 史】
始まりは「棲霞(せいか)寺」
 平安初期、この地は嵯峨天皇の「嵯峨院」の一部だったが、天皇の皇子で『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる源融(とおる) が、別荘「栖霞観(せいかかん)」を造営。源融は阿弥陀三尊像の造立を発願するが、完成を見ずに逝去。その遺志を継いだ子息が、融の一周忌に当たる寛平8(896)年に阿弥陀堂を建立して阿弥陀三尊を安置。「棲霞寺」と号した。
 その後の天慶8(945)年、醍醐天皇第四皇子の重明親王妃が、寺域に新堂を建立して等身大の釈迦像を安置。これが「釈迦堂」の名の由来とも言われる。

「清凉寺」への道のり
 時は「釈迦堂」建立より40年近くが過ぎた永観元(983)年頃。入宋僧・奝然(ちょうねん, 東大寺出身)は、汴京(べんけい)で太宗に謁して紫衣(しえ)を賜り、法済(ほうさい)大師の号を受ける。寛和元(985)年、奝然は五台山(清凉山とも)などに巡礼した後、啓聖禅院に安置されていた釈迦如来像の写しを現地の仏師に謹刻させる。永延元(987)年に帰国した奝然は、愛宕山を宋の五台山に見立て、請来した釈迦如来立像を安置する寺「大清凉寺」の建立を図るが、長和5(1016)年に志半ばで没する。その遺志を弟子の盛算(じょうさん)が継ぎ、私寺であった「棲霞寺」の釈迦堂に釈迦如来立像を安置。華厳宗「五台山清凉寺」となる。
 その後は華厳宗の他に天台宗・真言宗を兼ねる寺院となり、平安末期の保元元(1156)年には浄土宗の法然上人像開祖・法然が釈迦堂に7日間の参籠を行うなど、奝然の請来した釈迦如来立像への信仰が宗派を超えて多くの僧や信者の参詣をもたらした。また弘安2(1279)年には、大念仏中興上人と呼ばれる円覚(十万)上人が融通大念仏会を催し、以降釈迦堂は融通念仏宗の道場となっていった。
 16世紀には浄土宗の寺院となり、豊臣秀頼や徳川家、また住友家の支援を得るなどして度々の災禍の後も復興を重ね現在に至る。

【仁王門】
 和様と禅宗様を折衷した二階二重門の立派な仁王門は、天明4(1784)年に再建されたもの。左右には室町時代作の金剛力士像が置かれ、上層には十六羅漢像が安置されるという。見上げれば「五台山」の扁額。京都府指定文化財。

愛宕権現社仁王門を入るとすぐ左手には法然上人の銅像。釈迦堂に7日間参籠した時の姿とされ、「法然房源空二十四歳 求道青年像」とある。その目は真っ直ぐ本堂を見つめている。また右手にある石の鳥居の奥には「愛宕権現社」が鎮座。天応元(781)年、愛宕神社中興の祖とされる奈良時代の僧 慶俊は、和気清麻呂と共に朝日峰に白雲寺(廃寺)を建立。その鎮守社として、丹波国桑田郡国分村より山城国愛宕郡鷹峯に移された阿多古社を勧請する際に、この地に一時遷宮したとも伝わる。

 

【本堂(釈迦堂)】
 仁王門から本堂まで続く石畳の道の両側は明るく開け、よく晴れた日には青い空が快い。創建以来度重なる焼失に遭った本堂(釈迦堂)は、元禄14(1701)年に徳川五代将軍綱吉とその生母桂昌院の発願により、住友吉左衛門の援助を得て再建されて現在に至る。それ以前の堂は、慶長7(1602)年に豊臣秀頼によって再建されている。単層入母屋造、本瓦葺で和様と禅宗様の折衷になる。京都府指定文化財。
 本堂正面楣上には、黄檗隠元禅師筆の「栴檀瑞像(せんだんずいぞう)」の大額が掛けられている。本尊「三国伝来生身釈迦如来像(国宝)」を安置する内内陣の宮殿厨子は、徳川綱吉と桂昌院の寄進によるもの。宮殿裏には、古礀(こかん)の筆により「釈迦堂縁起」の一部を拡大した壁画が描かれている。

 最近は仏像がやたら「秘仏」になったり、離れた場所からしか拝むことができない寺院が多いが、清凉寺は特別公開の時には、内陣に入ってゆっくり拝観させてもらえるのが何とも嬉しい。

<参考資料>
・清凉寺拝観の栞およびHP
・『京都大事典』(奈良本辰也〔ほか〕編 淡交社 1984)