護法堂弁財天 (右京区嵯峨鳥居本一華表町)

京都・寺社

護法堂弁財天 天女の鳥居「五山送り火」で最後に灯される「鳥居形」のある嵯峨・曼荼羅山の南東麓に、小さなお社「護法堂弁財天」がある。地元では「嵯峨の弁天さん」とも呼ばれているようだ。清滝道沿いの京都バス「護法堂弁天前」停留所から歩いてすぐ。バス停近辺は閑静な住宅街で、観光客の姿はほとんど見かけない。

「辨財天道」車の往来の多い清滝道からほんの少し足を踏み入れただけなのに、そこはもう静寂の世界。参道前には石造りの大鳥居(明神鳥居) があり、「天女」の扁額。左右に灯籠、そして「辨財天道」の石柱。
竹や杉の木立の中の細い参道の階段を上って行くと、もう一つの鳥居。右手奥にこじんまりとした「護法堂」が見える。

護法堂「護法堂」前の階段下には狛犬と石灯籠。お堂裏には石窟もあるが、残念ながら祀られているお像の姿は拝見ならず。お堂右手には池があり、御神体の大きな磐座(いわくら) が大切に祀られている。傍の岩からは、清水が絶え間なく湧出し、まさに弁財天にふさわしい場所だ。

ここまでは「神社」らしいのだが、境内西側の小堂には、弘法大師かと思われる僧の石像があり、「大日大聖不動明王」と刻まれた石碑もある。「神社」と言うべきなのか、それとも「お寺」なのか…。

それはさて置き、古来日本の神仏習合の風習がそのまま残りつつ地域住民に崇敬され、大切にされている神聖な場所なのだろう。

御神体と鳥居

【護法善神と護法堂】
仏教ではインド古来の神々(バラモン教やヒンドゥー教の) を否定せず、仏教を守護する神として取り込んできた。中でも仏法および仏教徒を守護する神を、護法善神(ごほうぜんじん) あるいは護法神などと呼ぶ。日本では、特に修験道や、在来の呪術的庶民信仰とも深く結びついている。寺院で「護法堂」と呼ばれる堂宇があるのはこうした由縁からだろう。
「弁才天」もその護法善神の一つで、ヒンドゥー教では「サラスヴァティー」と呼ばれる女神。インド最古の聖典『リグ・ヴェーダ』では、聖なる河とその化身の名として現れる「水の女神」だ。日本では神仏習合によって神道にも取り入れられ、独自の変容をとげている。 不動明王石像と石清水

   謐けさに 湧きて流るる 石清水 いにしへ偲ぶ 仙翁の山 (畦の花)

【仙翁寺と仙翁花】
護法堂弁財天のある曼荼羅山は「仙翁寺山」とも呼ばれる。古の頃、この山には「仙翁寺」という寺院があったようだ。その来歴は不詳だが、6~7世紀頃に天竺 (インド) の霊鷲山から渡来した法道仙人が創建したのが始まりとも伝えられる。
法道仙人は播磨 (現・兵庫県 加西市) の法華山一乗寺を中心に活躍し、周辺には 法道仙人開創と伝わる寺院が多く存在する。鎌倉末期に臨済宗の僧・虎関師錬が著した日本最初の仏教史書『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』には、「雲に乗って天竺より来日し、「飛鉢の法」で供米を受けたり、天皇の病気平癒を祈祷したりして、宮中をはじめ多くの人々から帰依された」と記されている。御神体の磐座
京都府でも、福知山市にある観音寺が、法道仙人自刻の十一面千手観音菩薩を草堂に安置したのに始まるとされ、嵯峨野にその活動の痕跡があっても不思議ではないような…。
また、「仙翁寺」に由来する「仙翁花 (センノウゲ、センオウゲ) 」というナデシコ科の花もある。古くから「仙翁花」は京都嵯峨から出たものとする説があり、室町時代の古辞書である『下學集』には、「仙翁花 嵯峨仙翁寺、始めて此の花を出だす、故に仙翁花と云う」とある。江戸時代の『大和本草』では、「センヲウハ嵯峨ノ仙翁寺ヨリ出タルユヘ名ツクト云。仙翁寺今ハナシ」と記されている。さらに江戸時代の地誌『雍州府志』では、「仙翁寺は清凉寺の北にあったが、今は絶えて村の名として残っている」とある。

いずれにしろ「仙翁寺」は鎌倉時代頃までは残っていたようだが、その後は廃寺となり、現在は地名「嵯峨鳥居本仙翁町」・「仙翁寺山」と花名「仙翁花」にその名残があるということ。『都名所図会』の嵯峨十景の中には、「仙翁麦浪」があるが、今も昔もこの地の風景は人の心を惹きつけるようだ。

訪れる人もまばらな小堂「護法堂弁財天」だが、日本古来の磐座信仰や山岳信仰、伝説の法道仙人、清滝道を通って神護寺から嵯峨院 (後の大覚寺) に赴いた空海の姿など刻まれた歴史の跡が偲ばれる場所だ。
「天女」の鳥居の近くでは、ツルニチニチソウが春の穏やかな光を浴びて、青紫の花を美しく咲かせていた。

   春の日に 天女舞い降り 青き花  (畦の花)

<参考資料>
・『元亨釈書』虎関師錬 [著], 1322(元亨2年) (巻第18, 神仙 5)
・『下學集』東麓破衲 [著], 1444(文安元年) (巻之下, 第14 艸目門)
・『大和本草』貝原益軒編著, 1709(宝永6年)
・『都名所図会』秋里籬島 文 / 竹原春朝 絵, 1780 (安永9年)