安倍晴明公嵯峨墓所 (右京区嵯峨天龍寺角倉町)

陵墓・墓所

夢枕獏の小説『陰陽師』やその映画・ドラマ、さらにはフィギュア・スケートの羽生結弦選手のプログラムなどによってその名が広く知れ渡るようになった「安倍晴明」の墓所が、嵐山近くにある。「嵐電嵯峨」駅から南に歩いて5分ほどの静かな住宅街の一角。北側には、「長慶天皇 嵯峨東陵」の広い敷地。

入り口に「陰陽博士 安倍晴明公嵯峨御墓所」の石柱。その奥には、晴明についての説明や、彼を崇敬する人々により墓所が改修されたことなどを記した石碑もある。その横には石造りの神明鳥居が西に向かって建てられている。「翠嵐の嵯峨の地を永延の奥城として神鎮り奉ふ」と刻まれた文言の通り、晴明は「神」として祀られているようだ。鳥居奥の石段上には、五輪塔によく似た石の墓標があり、陰陽道のシンボル「五芒星」が刻まれている。その墓標を取り囲むように、同じく「五芒星」と奉納者の名を刻んだ石柱が並んでいる。「陰陽博士 安倍晴明公嵯峨御墓所」の石柱以外は新しく、清々しささえ感じられる墓所だ。

安倍晴明の墓所とされる所は、京都のみならず日本全国にあるようだが、安倍晴明を祀る「晴明神社」(堀川通一条上ル)は、ここを公式の墓地とし、毎年晴明の命日にあたる9月26日には「嵯峨墓所祭」として参拝・祭典を行っている。墓所の外には晴明神社による参拝の注意書きもあり、「陰陽師」が流行った頃には観光公害もあったと思われる。波が去った今、墓所は平穏を取り戻して日常に溶け込んでいる。

【安倍晴明 (921-1005)】
平安時代の陰陽師。晴明神社の由緒では、孝元帝の皇子・大彦命(おおびこのみこと, 阿倍臣(阿倍氏)を始めとする諸氏族の祖) の後胤とされる。生誕地や幼少の頃については不明なようだが、陰陽師賀茂氏の門下生となり、40歳の頃にはまだ陰陽寮で天文道を学ぶ学生であった。50代になって頭角を現し、村上、冷泉、円融、花山、一条の歴代天皇や藤原氏の信頼を得るようになり、陰陽師として名声を極めた。その後彼の子孫 (安倍氏流土御門家) は、鎌倉時代から明治時代初めまで陰陽寮を統括した。
没後は神秘化された晴明の逸話が『今昔物語』『宇治拾遺物語』『大鏡』などに載せられている。

晴明と言えば、2017年2月10日の「京都新聞」に「安倍晴明の子孫の墓ピンチ」と題された記事が掲載されていた。
「直系子孫の土御門家の菩提寺である梅林寺 (下京区) で、一族の墓が長年の劣化で崩壊しそうな状態なのだが、半世紀近く子孫の消息が不明のため、寺側が対応に苦慮しつつ供養を続けている」との内容。梅林寺には、宝暦暦を作った土御門(安倍) 泰邦や、天保暦の施行に関わった晴雄(はれたけ) ら歴代当主の墓とともに、泰邦が作ったとされる日時計のような観測装置「大表」の土台も残り、天文学や陰陽道の研究者らが墓参に訪れているとのこと。

さすがの「陰陽師」の力も及ばないか…。

<参考資料>
・晴明神社 HP         ・京都新聞 2017年2月10日付記事