雲林院 (北区紫野雲林院町)
北大路通りを挟んで大徳寺の南東に、『今昔物語集』や『大鏡』などの古典でその名を知られる「雲林院(うりんいん)」がある。その名は「うんりんいん」あるいは訛って「うじい」とも呼ばれ、平安時代の紫野の史跡となっている。現在は臨済宗大徳寺の境外塔頭で、十一面千手観世音菩薩を本尊とする。
【歴 史】
平安時代初期、平安京の北部にある紫野は、天皇や公家の遊猟や行幸の地だった。
天長年間(824-834) 第53代淳和天皇が、この地に広大な離宮「紫野院」を造営。後に「雲林亭」と改称され、やがて仁明天皇の離宮となる。次いで仁明天皇の皇子 常康 (つねやす) 親王に伝領されると「雲林院」に改名された。
貞観11 (869) 年 親王没後、僧正遍昭が管理して官寺となる。
元慶8 (884) 年 花山元慶寺の別院となり天台教学を専攻。菩提講が行われることで知られ、嵯峨二尊院湛空は楞厳(りょうごん) 雲林院の法則をうつして、二十五三昧を行ったという。
その後、鎌倉時代までは天台宗の官寺として栄え、菩提講や桜・紅葉の名所として知られた。
正中元 (1324)年 鎌倉時代に入りしばらく衰退していたが、後醍醐天皇の時に大徳寺塔頭となり復興。
室町時代 応仁・文明の乱 (1467-1477) の兵火により廃絶。
宝永4 (1707) 年 大徳寺291世 江西宗寛が観音堂を再建し、大燈国師の像(写し) を安置。
明治、大正、昭和としばらく無住の期間が続いた。
【境 内】
山門を入ると左手中央にあるのが「観音堂」。本尊 十一面千手観世音菩薩像と大徳寺開山 大燈国師像が安置されている。坐像の観世音菩薩は、少しふっくらとしたお顔が凛々しい。右前には奉納された「賓頭盧尊者」も安置。
観音堂の右手には朱の鳥居があり、「紫雲弁財天」が祀られている。そして左手奥には地蔵菩薩のお堂。全体に新しく、やっと寺院としての体裁が整ってきたという感じ。
小さなお庭には、僧正遍昭の歌碑
「天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」
が置かれている。
【雲林院と文学】
雲林院の菩提講は『今昔物語集』や『大鏡』に登場し、桜と紅葉の名所として『古今和歌集』などの歌集の歌枕ともなった。
『古今和歌集』巻第 5 の「秋歌 下」(292)には、僧正遍昭の次の歌が収められている。
(詞書 雲林院の木の蔭にたたずみてよみける)
「わび人の わきてたちよる 木のもとは たのむかげなく もみぢ散りけり」
また清少納言は、『枕草子』の「鳥は…」や「祭のかへさ…」の段で、賀茂祭の翌日に斎王が紫野の斎院に帰る行列を雲林院・知足院の前辺りで見たことを記している。紫式部『源氏物語』の「賢木」第4章では、光る源氏が雲林院に参籠する場面が描かれている。さらには、在原業平が『伊勢物語』の筋を夢で語る謡曲『雲林院』でも有名。
平安時代には多くの人々が訪れた大寺院も今は観音堂を残すのみだが、古刹の名を継いでくれているのは嬉しい。
散るさくら 哀しい恋の 雲林院 (畦の花)
<参考資料>
・雲林院 駒札 (京都市) ・WEB版 新纂浄土宗大辞典
・『平安京百景 : 京都市平安京創生館展示図録』京都市生涯学習振興財団