角倉稲荷神社 (右京区嵯峨天龍寺角倉町)

京都・寺社

嵐電嵐山本線の「嵐電嵯峨」駅から南に2, 3分歩くと、右手に広い「長慶天皇嵯峨東陵」が見え、その南に隣接して小さな祠「角倉稲荷神社」はある。西隣にあるのが「安倍晴明墓所」。静かな住宅街の一角にひっそりと建ち、石の鳥居の前の「角倉稲荷神社」の碑がなければ見過ごしてしまいそうだ。
ご祭神は五穀豊穣の稲荷神と角倉了以か? 境内にはブランコやベンチが置かれ、どうやら児童公園として町内で活用されているらしい。町名が示すように、江戸時代の頃は角倉了以の邸宅の一つがこの付近にあり、稲荷神社はその邸宅内の鎮守社だったようだ。

【角倉了以 (1554-1614)】
戦国時代から江戸初期にかけての京都の豪商。
角倉家 (本姓 吉田氏) は、室町時代中期に近江から上洛して幕府のお抱え医者を勤め、その後は土倉をも営むようになった。了以の父は医者であったが、了以は算数・地理を学んで外国との交易や国内の土木事業に進出。
交易では文禄1 (1592) 年に豊臣秀吉から,慶長9 (1604) 年以降は徳川幕府から朱印状を与えられて、安南国 (ベトナム) に朱印船 (角倉船) を派遣して巨万の富を得た。また土木事業では、大堰川を始めとして富士川、天竜川そして晩年には高瀬川の開削を行い、河川の通船支配権を獲得して経済的利益も得た。
角倉家は茶屋四郎次郎の茶屋家、後藤庄三郎の後藤家とともに「京の三長者」と言われ、京にいくつも邸宅を構えた。
嵐山の中腹に建つ「大悲閣千光寺」は、河川開発を象徴する角倉了以の木像があることで有名。また長男の角倉素庵は、本阿弥光悦、俵屋宗達らの協力を得て古活字本「嵯峨本」(角倉本) を刊行したことで知られる。墓所は二尊院。

「桓武天皇勅営角倉址」「角倉了以の邸宅跡」の石碑角倉稲荷神社から数分南に行った所、三条通に面して公立学校共済組合 嵐山保養所「花のいえ」があるが、こちらも角倉了以邸の跡。玄関前には「桓武天皇勅営角倉址」「角倉了以の邸宅跡」の石碑が建てられている。

京都では何気ない住宅街の中にも歴史の足跡があり、思いがけずそうした遺跡や石碑に出会うとなんだか嬉しい気持ちになる。