上品蓮台寺 (北区紫野十二坊町)
千本北大路の交差点を南に数分歩くと、右手 (西側) に上品蓮台寺 (じょうぼんれんだいじ) の山門が見える。山号は蓮華金宝 (れんげこんぽう) 山、正式には「九品三昧院 (くぼんざんまいいん)」という真言宗智山派の寺院。船岡山の西側にあたり、平安時代には葬送の地・蓮台野の墓守のような存在だったか。通常非公開の寺院だが、境内は自由に拝観させてもらえる。特に本堂前の枝垂桜を始めとして境内には桜の樹が多く、春には訪れる人で賑やかになる。
【歴 史】
山門前にある京都市の駒札によれば、
「聖徳太子の創建と伝えられる。当初は「香隆寺 (こうりゅうじ)」と称したが、天徳4 (960) 年に宇多法皇の勅願により寛空僧正が再建し、寺号を上品蓮台寺と改めた。当時は広大な寺域に伽藍が建ち並ぶ壮大なものであったが、応仁の兵火により焼失。文禄年間 (1592-96) に性盛上人が復興し、付近の蓮台野一帯に十二の子院を建立したことから、「十二坊」の名で知られるようになった」との縁起。「十二坊」の名は今も地名に残る。
また、江戸時代に白慧が著した『山州名跡志』の索引には「香隆寺 (蓮台寺)」とあるが、本文では「蓮台寺」となっている。その紹介は「船岡西、鷹峯西方にあり、聖徳太子が自作の地蔵菩薩を祀って建立したのに始まる。寺名又香隆寺とも。寛平上皇が落髪後に住し、その後、寛空法師が住持となり中興。弘法大師自作の自身の坐像あり…」云々。かつて蓮台寺と香隆寺は隣接しており、香隆寺が廃れてしまったために蓮台寺が合併したとも言われる。
【本 堂】
千本通に面して建つ本瓦葺の立派な山門付近には、いくつもの石碑や由緒の駒札が立ち並び、この寺院が古刹であることを伝える。参道は方丈の玄関へと続き、春には桜の花が拝観者を迎えてくれる。方丈から渡り廊下を通って本堂に繋がっているようだ。本堂には村上天皇より賜った「上品蓮台寺」の勅額が掲げられている。本堂前には、一際枝振りの良い枝垂桜。本尊は延命地蔵菩薩。国宝や重文など多くの寺宝を蔵していると聞くが、残念ながら現物を拝見することは難しい。
国宝「紙本着色絵因果経」 奈良時代の絵巻で、釈迦の『過去現在一切経』を絵を用いて描いたもの。下段に経文、上段にはその場面を描いた絵。現在は京都国立博物館に寄託されている。(他に重文「絹本著色六地蔵像」「絹本著色文殊菩薩像」など)
本堂と向かい合うように建立されているのが「大師堂」で、その左側には弘法大師像、少し離れた右手奥には鐘楼が建つ。そしてここにも枝垂桜。本堂南側には、現在も残る子院「寶泉院 (ほうせんいん)」があるが、まだ再建されて間がないようで、とても新しい。
【仏師定朝墓】
本堂と「寶泉院」の間の道を西に進むと、広い墓地が見える。その入り口付近に、高さ2mはありそうな笠塔婆が建つ。墓石には「日本佛師開山常朝法印康城」と印され、手前の石碑には「佛師定朝墓」とある。
山門前の「日本佛師開山常朝法印「定朝」の墓」と題された駒札には
「定朝は日本で最初に「法橋上人位」から「法眼和尚位」に、そして「僧鋼」にまで昇進した仏師で、仏師の社会的地位公認に大きな役割を果たした。「上品蓮台寺」で出家得度した定朝は名を「康城」と改め、塔頭の一つ「照明院」を建立。平等院の阿弥陀如来像を完成した4年後の1057年に没し、遺体は上品蓮台寺に埋葬された。墓碑銘「常朝」は、朝廷からの̪諡号によったためである。」と説明されている (概略)。"京都佛像彫刻家協会" による案内板だが、「寄木造」の完成者として知られる定朝への敬意が伝わってくる。
【源頼光朝臣塚 (蜘蛛塚)】
玄関から参道を北に進むと右手に子院「真言院」が見える。その北側からずっと寺域の西側にかけては、広大な墓地。墓地の北西に一本の大きな木があり、その根元には「源頼光朝臣塚」の石柱。また縁起が記された駒札 ( “謡曲史跡保存会" による) も立つ。曰く
「平安中期の武将 源賴光が原因不明の熱病で臥していると、病床に化身した土蜘蛛の精が現れて襲ってきた。賴光は名刀「膝丸」で斬りつけ、それを家来の渡辺綱ら四天王が追った。化物は「北野のうしろ」の大きな塚に消え、そこにいた大きな山蜘蛛を四天王達が退治した。 (謡曲『土蜘蛛』より)
北野とはこの辺り一帯の禁野 (しめの) のひとつで、ちょうどここが北野のうしろに当たる。元は千本鞍馬口西入にあったが、昭和の初めに当地に移した。」
【阿刀氏(あとし)塔】
「源頼光朝臣塚」から少し東にある墓地の中央あたりには、一際大きな五輪塔がある。弘法大師 空海の母の墓とされる「阿刀氏塔」だ。「阿刀氏」は空海の母の家系で、空海は大学に入学する以前、おじの阿刀大足 (あとのおおたり) に論語、孝経などを学んだという。
「阿刀氏塔」はかつて肺病祈願で知られ、石塔の前で病人が身に触れた衣服を祈祷して焼き、その灰を飲むと全快したという伝説も残る。山門前の片隅に「大師母公跡 肺病平癒霊塔」の石碑がある。
その他、江戸時代中期の国学者 富士谷成章 (儒学者 皆川淇園の弟) とその子 富士谷御杖の墓地などもあるという。寺院の西の境界壁際には、古い石仏や墓石が累々と重なり積まれており、この地がかつては葬送の地であったことを思い起こさせる。
《Note》
・平安中期、嵯峨釈迦堂 (清凉寺) の本尊「三国伝来の釈迦像」を、奝然 (ちょうねん) が宋から日本に請来した折に、釈迦像を一時的に安置したのがこの蓮台寺。
・源頼光ゆかりの「蜘蛛塚」は、北野天満宮の一の鳥居近くの「北野東向観音寺」にも存在する。こちらには、土蜘蛛の呪いが残ると伝わる石灯籠の火袋部分が祠に祀られている。
<参考資料>
・京都市駒札 「上品蓮台寺」 ・『神殿大観』 安藤希章著
・『京都・山城 寺院神社大事典』1997(平凡社)
・『山州名跡志』白慧撰 大日本地誌大系刊行会, 大正4 (大日本地誌大系 第2冊) (国立国会図書館デジタルコレクション)