阿刀神社 (右京区嵯峨広沢南野町)
「式内 阿刀(あと)神社」は、嵐電「車折神社駅」から北方向に歩いて10分ほど、新丸太町通の南側に隠れるようにある。駐車場に挟まれた細い路地の前に「式内 阿刀神社」の社号石柱があるが、うっかりすると見過ごしてしまう。道路北側にある「広沢郵便局」が目印になる。
路地は右へと曲がり、間もなく民家やマンションに囲まれた敷地に石の神明鳥居が見える。鳥居の先には東向きの小さな社殿。覆屋に小さな流造の祠を納めただけの簡素な神社だが、きれいに手入れされており、地域住民に大切にされているのがわかる。ご神木のヒノキは、高さ20m、幹周り2.8mほどもある大木で、「右京区 区民の誇りの木」に指定されている。
【歴 史】
入り口の石柱傍にある説明書には「弘法大師 (空海) の母方 阿刀家の祖霊社です。一説によると平安遷都により河内国渋川郡跡部 (現 八尾市) の本拠からこの地に移住したと言われています。」と記されている。
また嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑である『新撰姓氏録』(815年) の第二帙 (神別) の山城国には、「阿刀宿禰」・「阿刀連」の氏族名があり、石上朝臣 (物部氏) と同祖で、始祖は「饒速日命(にぎはやひのみこと)孫 味饒田命 (うましにぎたのみこと) 之後也」となっている。
創祀年月は不明だが、平安遷都の頃にはすでにあり、創祀時の主祭神は始祖「味饒田命」だったのではないだろうか。その後、伝 嵯峨天皇作の天照大神の木像を祀ることになり、主祭神が「天照皇大神」へと変わったと考えられる。
弘仁14 (823) 年、阿刀家は真言宗の執行職として東寺に移ったが、その後も神社は阿刀家の氏神として存続していたのだろう。
【逸 話】
・空海の出家宣言の書とも言われる『三教指帰』(あるいは改訂前の『聾瞽指帰』?) の初稿はこの地で書かれた。
・江戸時代、後水尾天皇はこの近くの「燈象菴」に行幸した折に
蟲の音もながき夜飽かぬふるさとに なほ思ひそふ松風ぞ吹く (藤原家隆朝臣)
の和歌を書いた色紙を阿刀栄元に贈った。
・角倉了以の家も清原国賢の家も阿刀家と親族関係にあり、近世嵯峨文化の基源を成した。
京都の街を歩いていると、見逃してしまいそうな小さな社寺や祠、石碑にも思いがけない歴史が隠されていることに気づかされることが多い。そう、歴史のジグソーパズルのピースがまた一つ埋まったようで、おもしろい。
<参考資料>
・ “京都観光Navi" 京都市観光協会 ・ フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
・ 『新撰姓氏録』 (国立公文書館デジタルアーカイブ) ・ 「区民の誇りの木 一覧」 京都市情報館