宝筐院 (ほうきょういん) 右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町
嵯峨釈迦堂 (清凉寺)の仁王門前の通りを西に行った突き当たりに、臨済宗系単立寺院「宝筐院」はある。瓦葺の小さな山門を一歩入ると、思いがけず広い庭園が参拝者を迎えてくれる。平成になってから整ったという庭は、秋には楓やドウダンツツジの紅葉が見事で、メディアに取り上げられるなどして観光客で大いに賑わう。
【歴 史】
<勅願寺から廃寺までの変遷>
平安時代、白河天皇 (1053-1129) の勅願寺「善入寺」として建立されたのに始まり、平安末期から鎌倉時代にかけては、数代にわたり皇族が住持となったこともあり。
南北朝時代の貞和年間 (1345 – 50)、夢窓疎石の高弟・黙庵周諭 (もくあんしゅうゆ) が衰退していた寺を中興開山し、禅宗寺院に改める。その後、黙庵に帰依した室町幕府2代将軍 足利義詮の保護により伽藍が整備された。貞治5 (1367) 年に義詮が没するとその菩提寺となり、8代将軍 義政の時に義詮の院号に因み「宝筐院」と改称。
しかし「応仁の乱」以後は幕府衰退と共に寺も衰微。江戸時代には天龍寺末寺の小院となり、明治初めには廃寺。
<伽藍再興への道>
明治24 (1891)年、「楠木正行の遺跡」の荒廃を知った京都府知事 北垣国道が、その由来を記した石碑「欽忠碑」を建立。さらに天龍寺管長 高木龍淵や神戸の川崎財閥 川崎芳太郎により、楠木正行ゆかりの遺跡を護り菩提を弔う寺として、宝筐院の再興が図られることとなった。
旧境内地が買い戻され、新築や古建築の移築によって伽藍が整えられて大正5 (1916) 年に再興。本尊に古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を迎え、屋根には楠木の家紋「菊水紋」を彫った軒瓦を用いて「楠木正行」ゆかりの寺であることを示しているという。
【小楠公首塚ゆかりの寺】
楠木正行 (くすのき まさつら) は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将 楠木正成 (まさしげ) の嫡男で、南朝の後村上天皇に仕えた武将。父が「大楠公 (だいなんこう)」と称されるのに対し、「小楠公」と尊称される。
寺伝では、楠木正行も宝筐院中興開山の黙庵に帰依しており、自分の後事を託していたという。正平3/貞和4 (1348) 年、正行は河内国北條 (現・大阪府四條畷市) の「四条畷の合戦」で高師直率いる北朝の大軍と戦って討ち死に (23歳)。その首級は、生前の交誼により黙庵によって善入寺に葬られた。後にこの話を黙庵から聞いた足利義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう遺言したという。
山門からまっすぐ伸びる参道は、楠木正行・足利義詮の墓所に向かう。墓所入り口右側には「小楠公首塚之門標」の石標。石の柵に囲われた墓所の向かって右側に「楠木正行首塚」の五輪塔が、そして左側には「足利義詮の墓」と伝わる三層石塔 (蓮華座に結跏趺坐した四方仏 (薬師、弥陀、釈迦、弥勒) が陽刻) が並び建つ。石扉には、楠木正行の家紋「菊水」と足利義詮の家紋「丸に二つ引両 (足利二つ引)」が刻まれている。
墓前には「楠正行朝臣首塚 足利寶筐院殿墓」の石標があり、墓所の右脇には京都府知事 北垣国道が建立したという大きな石碑「欽忠碑」がある。よく見れば「北垣國道」「寶筐院」「首塚」などの字句が読み取れる。また墓前の二つの石灯籠に刻まれた「精忠」(右)、「碎徳 (さいとく)」(左)の文字は、文人画家・儒学者の冨岡鉄斎の揮毫とのこと。義詮の徳の大きさを褒めた言葉という。
【本 堂】
山門からすぐの右手に庫裏、本堂と隣り合って建つ。本堂内正面に本尊の十一面千手観世音菩薩立像、左側に楠木正行の坐像が安置されている。また、右側には放射光の光背を持つ金箔の仏像。阿弥陀如来立像か?本尊は再興の折に移された古仏というが、護摩供のせいか黒くなっているものの、よく見るとなかなか趣深い。
本堂正面には苔庭とモミジの庭。ヤブランなどの植栽もさりげなく庭を飾っている。最近は「額縁庭園」というのが流行りらしく、本堂内側から前庭を撮影する人が目立つ。
【回遊式庭園】
本堂西側の白砂に枝垂桜のある枯山水庭園があり、このお庭を中心として本堂・書院周辺は秋には美しい紅葉に包まれる。所々に石灯籠や小さな滝に見立てた石組が置かれ、山茶花やツリバナなどもアクセントになっていて造園家の細かな配慮が感じられる。
【歌 碑】
楠木正行の辞世の歌碑
「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止むる」
を見ていると、今もなくならない戦いのことが心をよぎる。
<参考資料>
・宝筐院 公式HP , 参拝の栞 ・フリー百科事典 『ウィキペディア(Wikipedia)』
・庭園情報メディア[おにわさん]