清凉寺 (嵯峨釈迦堂) (2) (右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町)

京都・寺社

" 嵯峨の釈迦堂 “ として親しまれている清凉寺へは、京福「嵐山」駅を降りて北に徒歩で15分ほど。市バスまたは京都バスの場合、「嵯峨釈迦堂前」で下車して西に数分。江戸時代に再建された二階二重門の荘厳な仁王門が参拝者を迎える。
  (山号) 五台山 (宗派) 浄土宗知恩院派  (本尊) 釈迦如来 (国宝)

 

摩尼殿(弁天堂)

【放生池と摩尼殿(弁天堂)】
 本尊「三国伝来生身釈迦如来像 (国宝)」を安置する本堂の北側には放生池があり、池に面して南向きに摩尼殿(弁天堂) がある。正面柱間三間で軒唐破風、屋根には龍の宝珠。正面の扉には寺紋である「梅鉢」や松、獅子などの彫刻が施されており、創建当時はさぞかし華やかだったことだろうと思う。江戸末期頃の建築と推定されている。また摩尼殿の西にある中小島には戦争犠牲者の霊を弔う忠霊塔 (十三重石塔) や供養塔が建てられている。広い池泉回遊式庭園となっているが、庭園内は檀家の方達のみ出入りが許されているので、本堂から大方丈へと続く渡り廊下からの見学となる。秋には紅葉が美しい。

大方丈の前庭

【大方丈】
 享保年間 (1716-35) に再建されたもので、襖絵の一部は狩野探幽の筆になるという。寛永14 (1637) 年に焼失した以前の大方丈は、6歳で早世した徳川家康の息女一照院の位牌所として、家康と側室の英勝院により寄進されたもの。枯山水の前庭は小堀遠州作と伝えられ、当時の面影を今に残すとされる。また書院は、宇喜多秀家 (豊臣政権末期の五大老の一人) の妻 樹正院 (前田利家の四女) が関ヶ原の戦いの後に隠居所としたとのこと。

阿弥陀堂

【阿弥陀堂】
 本堂東にある阿弥陀堂は、清凉寺始まりの御堂とも言える建物。
 平安初期、嵯峨天皇の「嵯峨院」の一部であったこの地を、天皇の皇子である源融 (とおる ,『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人とされる) が賜って別荘「栖霞観(せいかかん)」を造営。融没後の寛平8(896)年、遺族が融発願による阿弥陀三尊を安置した阿弥陀堂「棲霞寺(せいかじ)」を建立。その後幾度かの焼亡を経て文久3 (1863) 年再建された。
 かつては旧棲霞寺本尊の阿弥陀三尊像 (国宝) や木造兜跋毘沙門天立像などが祀られていたが、現在は霊宝館に収蔵されている。春先には御堂前の紅白の梅が目を楽しませてくれる。

秀頼公首塚

【豊臣秀頼公の首塚】
 本堂西側の松の木の横に「秀頼公首塚」と刻まれた大きな石碑があり、その左側には少し小ぶりな「大阪の陣 諸霊供養碑」の石碑がまるで寄り添うように建っている。
 1980 (昭和55) 年、大坂城三ノ丸跡地の発掘調査で豊臣秀頼のものではないかと推測される頭蓋骨が発見され、1983 (昭和58) 年清凉寺に埋葬された。釈迦堂 (本堂) は、1602 (慶長7 ) 年に豊臣秀頼によって寄進・造営されて再興した (その後の嵯峨大火で再度焼失したが) という由緒によるもののようだ。また墓地には、豊臣秀頼の槍の指南役として仕え、大坂夏の陣で奮戦し自害した渡辺内蔵助 (糺) 一族の墓もあるという。

清凉寺は決して派手な観光寺院ではないが、常に縁ある人々を手篤く供養する「お寺さん」。そんな「嵯峨釈迦堂」が好きで、気分をリフレッシュさせてもらいについつい足を運んでしまう。

<参考資料>
・ 清凉寺拝観の栞 および HP      ・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』