奈良博 “空海 KŪKAI” 展で思う
4月13日から6月9日にかけて「奈良国立博物館」(奈良博)で開催された特別展『空海 KŪKAI ─密教のルーツとマンダラ世界』の来場者は、5月21日に10万人に達したという。「かつてない空海展」とNHKでも大きくPRされるなど、注目度も高かったようだ。以前より「曼荼羅」には関心があったので、少しでも空いているかと思い、ゴールデンウィーク前の平日 (前期) に来館してみた。しかし、平日の午前中にもかかわらず予想外に多い来場者に、少々驚くと同時に「お大師さん」人気を改めて実感。まるで「弘法市」のような…。
【 第1章 密教とは ー 空海の伝えたマンダラの世界】
展示室入り口に立った瞬間、目の前にあるのは「立体曼荼羅」の世界。そして後方壁面には「両界曼荼羅」が堂々と掲げられ、真言密教の修法を行うための「両部大壇」が設られている。その修法を見守るかのように並ぶ「真言八祖像」。
今回是非見たかった彫像のひとつが、京都 安祥寺所蔵の『五智如来坐像』(国宝)。安祥寺は空海の孫弟子 恵運僧都の開創になる寺院で、『五智如来坐像』の造像は創建時に遡る (851年から854年頃)。五躰揃って伝わる最古の五智如来像とされるが、現在は京都国立博物館に寄託されているため、なかなかお目にかかれない。今回の展示は、光背を外した五仏を大日如来を中心として不空成就如来、阿弥陀如来、宝生如来、阿閦如来 を四方に配する「立体曼荼羅」を模す。各々の像を四方からじっくり拝見できるのは、博物館での展示ならではと思う。
そして空海入定の地 高野山金剛峯寺の『両界曼荼羅 (血曼荼羅)』(重文) が、厳かに五躰の如来を見守る。「胎蔵界曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」(各 縦幅:4.3m, 横幅:4m) が一対となる『両界曼荼羅』は、日本に現存する最古の彩色曼荼羅図とされる。『平家物語』には、平清盛が金剛峯寺の金堂にこの曼荼羅を奉納したのだが、その際に清盛自身の頭の血を混ぜた画材で胎蔵界大日如来の宝冠を描いたとある。そのため別名「血曼荼羅」とも呼ばれるようだが、なかなかミステリアスな曼荼羅だ。
【 第2章 密教の源流 ー 陸と海のシルクロード】
古代インドで誕生した仏教は、釈迦入滅の数百年後には大乗仏教が主流となった。この大乗の菩薩道から密教が生まれ、その根本経典とされるのが 『大日経』 と 『金剛頂経』 。『大日経』 は、8世紀に陸路を通って唐に入ったインド僧 善無畏 (ぜんむい, 真言密教 “伝持の八祖" 第5祖) により漢訳された。他方 『金剛頂経』 は、インド出身の金剛智 (こんごうち, 真言密教 “伝持の八祖" 第3祖) が、海路でスリランカ・ジャワなどを経て唐にもたらした。一般的には密教の中国への伝播ルートと言えば、<陸のシルクロード『大日経』>がイメージされやすいが、第2章では<海のシルクロード『金剛頂経』>に焦点を当てているのが特色。
展示では、国宝である園城寺の『梵莢 (大日経真言・十二天真言)』(9世紀,唐) ・西大寺の『大毘盧遮那成仏神変加持経 (大日経)』(766年)という貴重な書とともに、インドネシア国立中央博物館から借り受けた仏像51躰 (日本初公開)、密教法具4点が公開された。
会場は宇宙の広がりを表したような円形に設られ、その中央にインドネシアのジャワ島東部のガンジュク遺跡で出土した「金剛界曼荼羅彫像群」(10世紀, ブロンズ像) が、円形の壇上に安置されている。壁面には各々の像の画像を取り込んだこれもまた円が、浮遊するかのように施されている。混雑の中でも像をじっくり拝見できる工夫と感じた。
【 第3章 空海入唐 ― 恵果との出会いと胎蔵界・金剛界の融合】
延暦23 (803) 年に遣唐使の長期留学僧として入唐した空海は、永貞元 (805) 年、長安青龍寺の恵果和尚 (密教第7祖) に師事。第3章では、空海の出家宣言とも言える『聾瞽指帰』を始めとして、彼が唐から日本にもたらした法具等とその請来目録などを展示。
先ず持って見たかったのは国宝『聾瞽指帰』(金剛峯寺所蔵)。空海の宗教的寓意小説とも言われる『三教指帰』の初稿本に当たる。勢いのある力強い筆運びに、青年空海の自信と強い信念が感じられた。また空海が唐より持ち帰った数々の経典、法具、曼荼羅などを朝廷に提出するために記した目録『弘法大師請来目録』(教王護国寺所蔵, 国宝) の長さに、彼がいかに多くの品々を持ち帰ったのかを実感。しかし最も感動したのは、空海が初めて恵果和尚に出会った時の状況を「師は私を見て微笑みそして…」と生き生きと書き綴っている箇所を目にした時。運命的な出会いというのは、確かにあるのかもしれない。
空海帰国に際して恵果和尚から贈られた法具などもとてもすばらしい。『諸尊仏龕 (ぶつがん)』(金剛峯寺所蔵, 国宝) は、空海の「枕本尊」とも呼ばれるもので、唐で8世紀頃に作られたという。香木製の両扉のある仏龕で、釈迦如来を中心に多くの諸菩薩などが細部まで丁寧に彫刻されている。空海は常にこの仏龕を携帯し、日本中を行脚していたのだろうか。そしてその手には、同じく唐製の『錫杖頭 (しゃくじょうとう)』のある錫杖が握られていたのかもしれない。金銅製の『錫杖頭』(香川県善通寺所蔵, 国宝) 先端には宝珠があり、その下の輪には阿弥陀如来、脇侍の菩薩立像そして四天王が配されており、豪奢な造りだ。善通寺では、空海生誕の日に合わせて毎年2日間のみの公開という貴重な品。さらには、毎年1月に教王護国寺で修される「後七日御修法 (ごしちにちみしほ)」で、現在も大阿闍梨の所用具として用いられている『金銅密教法具』(国宝, 金剛盤・五鈷杵・五鈷鈴) も9世紀唐より伝来。どれもとても精巧な造りで美しく、まさに美術品と言える展示物に、当時の唐の文化・技術力の高さが窺える。
また今回の展示では、中国・西安碑林博物館が所蔵する一級文物『文殊菩薩坐像』 (唐代) が撮影許可されていた。西安市は古都長安を前身とする都市で、唐の時代に空海が渡った地。『文殊菩薩坐像』は、かつて長安にあった安国寺跡から出土した密教像のうちのひとつとのこと。唐代の長安は密教が隆盛を極めていたようで、この地の青龍寺で師 恵果と出会った空海も、こうした密教像を目にしていたのかもしれない。大理石製の像は、ガンダーラ仏教美術の香りを感じさせる。服装や持物が、胎蔵旧図様の金剛波羅蜜菩薩に近いということだが、衣文や蓮台など細かなところまで精緻な細工が施されている。
【 第4章 神護寺と東寺 ― 密教流布と護国】
20年の留学期間を2年で切り上げ唐より帰国した空海は、当時和気氏の私寺であった「高雄山寺」(現 神護寺) に入る。高雄山寺を拠点に密教の流布に尽力した空海は、やがて朝廷の信頼を得て東寺を任され、勅により神泉苑で祈雨法を修するなどしてその存在は広く知られるようになった。
第4章では ① 高雄山 ② 東寺と護国密教 ③ 多才なる人ー執筆活動 の三部構成で、彼が密教流布のために残した書が多く展示されていた。しかしなんと言っても注目されたのは、6年に及ぶ修理を終えて初公開された空海指導の下に描かれた現存最古の国宝 『両界曼荼羅(高雄曼荼羅)』。
正式には『紫綾金銀泥絵両界曼荼羅図 (むらさきあや きんぎんでい え りょうかいまんだらず)』と呼ばれる縦横4mほどもある2幅の曼荼羅は、前期に「胎蔵界」が、後期に「金剛界」が展示された。その大きさだけでも圧倒されるが、修理中の曼荼羅を詳細に調査した結果、曼荼羅には当時非常に希少であった染料「紫根 (しこん)」が大量に使用されていたことが判明したというニュースが会期中に流れた。神護寺には造立の詳細を伝える記録も願文の類もなく、後世の文献には淳和天皇の勅願で制作されたと記述されている。今回の調査結果は、この記述を裏付けるものだという。朝廷がいかに空海に信を置いていたのか、それを語る逸品なのかもしれない。神護寺が衰退した時代、この曼荼羅は「仁和寺」から「蓮華王院」の宝蔵に移り、さらには後白河法皇から「高野山」に贈られたという。それを返還してもらうために尽力したのが文覚上人。長い時の流れを超えて「今ここにある」曼荼羅に向かうと何とも厳かな心持ちになる。できれば神護寺金堂内に掲げられる両曼荼羅を拝見したいものだ。
また平安の 「三筆」 とされる能書家 空海の自筆を直に見られるのも今回の展示の特色。中でもよく知られた最澄に宛てた手紙『風信帖』(ふうしんじょう, 国宝) や、高雄山寺(神護寺)で真言密教の灌頂を授けた人々を記した『灌頂歴名』(かんじょうれきみょう, 国宝) の前には多くの人が列をなしていた。私が興味を引かれたのは国宝『金剛般若経開題残巻』。”開題” とあるように、これは義浄訳『能断金剛般若経』を空海が密教の立場から解釈したもののようで、草書と行書が混在し、加筆や文字訂正などもあることから草稿とされている。この書をしたためている空海の姿が、行間から思い起こせるようなそんな気がしてくる。
【 第5章 金剛峯寺と弘法大師信仰】
弘仁7 (816) 年、嵯峨天皇より修禅の道場として高野山を下賜された空海は、金剛峯寺建立に着手。天長8 (831) 年に病を得てからは、師 恵果和尚から伝えられた真言密教存続のために尽力し、承和2 (835) 年、高野山で弟子達に遺告を残して入定。
最後の会場では、空海入定後に制作された魅力的な絵画や仏像に出会えた。まず国宝『五大力菩薩像』は、高野山内の18の塔頭が組織する「有志八幡講十八箇院」が所蔵 (高野山霊宝館保管)。空海請来の『新訳仁王経』により、五大明王と結び付いて名称や姿が変化したということで、独特の忿怒相を持つ菩薩。元は「金剛吼」「竜王吼」「無畏十力吼」「雷電吼」「無量力吼」の5幅が揃っていたらしいが、明治の大火で2幅が焼失し、現在は3幅が残る。前期では「金剛吼」、後期に「竜王吼」「無畏十力吼」が公開。実際に見ることができたのは「金剛吼」だけだったが、燃え盛る赤い炎の中で、三つの目と口をカッと開いたその姿は正に明王。
国宝の図像『伝船中湧現観音像』(12世紀) は、空海が入唐する際に荒海での航海を守ったと伝える観音像で、高野山の龍光院所蔵。截金を施した衣を纏った観音像は、全体が黄色の印象。膝を少し屈めて礼盤に乗る姿は、まるで波の上または雲の上でサーフィンをしているように見える。花をあしらった冠を付ける姿は優しげな雰囲気を与えるが、よく見れば少し眉を顰めた顔は、行を修する厳しい表情のようでもあり… 不思議な観音像。博物館の解説には “特異な姿は実際には密教の秘法で行者を守護する別の尊格のもの" とあり、納得。
そして最後は、快慶作『孔雀明王坐像』(金剛峯寺, 鎌倉時代)。明王と言えば不動明王や愛染明王のような忿怒の表情が思い浮かぶが、「孔雀明王」は慈愛を湛えた穏やかな顔の明王。インドでは明王の中でも最も早くに成立したというが、猛毒を持つ蛇を食べることから一切の災厄を除くとされ、日本でも奈良時代にはすでに祀られていた。ただ古い時代の彫像は少なく、空海が描いたと言われる画を、快慶が後鳥羽上皇の祈願所となる高野山孔雀堂の本尊として立体化した。明王は両翼の上の蓮台に坐し、広げられた尾羽が光背となる。蓮花や孔雀尾を持つ四臂はバランス良く、孔雀の立ち姿も美しい。彩色や截金模様も驚くほどきれいに残り、その場を立ち去り難い魅力がある。さすが快慶!
『空海生誕1250年記念特別展』 と題された今回の奈良国立博物館の展覧会は、「空海が生涯かけて伝えた『密教とは何だったのか』に焦点を当てた企画」ということで、「マンダラ空間」を再現することに創意工夫が凝らされているのを感じた。例えば理解しにくい「両界曼荼羅」を、図解イラストとともに平易な表現で解説。漢字すべてにルビが振られているので、低学年の子供達にも読める。もちろん仏教に独特な言葉は、大人でもルビがあることでわかりやすい。ただ奥深い真言密教、そう易々とは理解できないと改めて感じる。
充足感と少々の疲れと共に、空海の言葉「虚空尽き 衆生尽き 涅槃尽きなば わが願いも尽きなん」(『性霊集』巻第八 ) が充満する会場を後にした。
<補 記>
今回の特別展では、インドネシア国立中央博物館から仏像を借りるのに際して、次のような大変な苦労があったことを後に知った。
一部の仏像に劣化がひどく空輸に耐えられないものもあったので、奈良博の主任研究員は、金属修理で実績がある元興寺文化財研究所に相談。その結果、研究員二人とともに現地に赴いて、まず仏像の補強修理をすることになった。現地スタッフには高度な技術や経験が少なかったため、レクチャーをしながらの5日間の作業が行われた。
朽ち果て無くなってしまったかもしれない文化財が、国際的な協力で蘇ったのは、なんともうれしいニュース。
<参考資料>
・ 『空海 KŪKAI ─密教のルーツとマンダラ世界』 チラシ, website 奈良国立博物館
・ 高野山霊宝館 website ・ 「寺宝紹介」 高雄山 神護寺 website
・ 『かつてない空海展になる』 美術展ナビ 2023.10.03
・ 『仏像修理技術をインドネシアに伝授…奈良の専門家、「空海展」への空輸に収蔵品を補強』 讀賣新聞オンライン, 2024/05/25
・ 『空海ゆかりの国宝「高雄曼荼羅」染料に希少な「紫根」使用判明』 NHK京都NEWS WEB, 2024.5.20