願徳寺 (西京区大原野南春日町)
天台宗「佛華林山 寶菩提院 願徳寺」。本尊は「如意輪観世音菩薩半跏像」。京都洛西観音霊場第33番札所。
阪急「東向日」駅またはJR「向日」駅より阪急バスで20分程揺られて、「南春日町」で下車。ここから住宅街の道を西に進んで行くと、樫本神社 (大原野神社の境外摂社) の前に出る。すぐ先の角を右折すると、大原野の長閑な風景が広がる。さらに5, 6分歩けば左手に 「正法寺」、右には 「大原野神社」 の鳥居が見えてくる。「大原野神社」を過ぎると、西行桜で知られる 「勝持寺」 に通じる長い石段がある。「願徳寺」 はこの「勝持寺」に隣接する。
「京都で一番小さな拝観寺院」と称するように、境内の堂宇は本堂と庫裡のみの小さな寺院だが、国宝の本尊を間近に拝観できる。創建当初は大寺院だったようだが、幾多の紆余曲折を経て1973 (昭和48) 年にやっと現在地に移転。
【歴 史】
白鳳 (天武天皇) 8 (679) 年:持統天皇 (天武天皇の皇后) の勅願により現在の向日市寺戸 (向日丘陵上) に創建される。当初は「長岡寺」と称し、南北800m、東西1300mほどに及ぶ大寺院であったという。史料上の初見は、『日本後紀』大同5 (810) 年の記事に「嵯峨天皇の病気平癒のため「長岡寺」で誦経した」とある。
平安遷都後:寺号は法号に由来する「願徳寺」へと改称。当初の本尊であった「薬師如来」も、太秦広隆寺の別当であった道昌により広隆寺に遷されたという。この仏像は、現在広隆寺で霊宝殿に安置される秘仏「薬師如来像」で、毎年11月22日の「聖徳太子御火焚祭」の時に限り開扉される仏像のようだ。
平安時代後期:寺領が後白河法皇の長講堂領に編入されるなどして衰退。
鎌倉時代初期:天台宗の僧 忠快 が東山三条に営んでいた「宝菩提院」が、衰退の途にあった「願徳寺」に移される。天台密教の一派を形成した忠快、その弟子の承澄によって台密の大寺院となり、承澄に台密穴太流を学んだ澄豪の流れは後に「西山流」と称されるようになる。
(小川法印忠快は、平清盛の弟 教盛の子で、壇ノ浦の戦い後に伊豆配流となる。しかし源頼朝や御家人達から帰依を受けた忠快は、父の所有地であった三条小川高畠の地を返付されて「宝菩提院」を建立している。)
室町時代の応仁・文明の乱、さらには 安土・桃山時代 の織田信長の元亀争乱による兵火で諸堂悉く灰燼に帰す。江戸時代 に徳川家康の加護を受けて再興するが、昭和期に入ると荒廃が進む。
昭和37 (1962) 年:本尊の如意輪観音および諸仏が、隣接する「勝持寺 (花の寺)」(天台宗) に遷される。
昭和39 (1964) 年:旧地 (向日市寺戸町西垣内) の宝菩提院は廃寺となり、遺跡「宝菩提院廃寺」が残る。
昭和48 (1973) 年:現在地に本堂と庫裡が再建される。
平成8 (1996) 年12月:本尊 如意輪観音および諸仏が願徳寺に帰座。
平成15 (2003)年、旧地「宝菩提院廃寺」の跡地から湯屋 (蒸し風呂) 跡が発見される。それまで現存する最古の湯屋とされた「東大寺大湯屋」よりさらに古く、平安前期 (西暦900年前後) のものという。また遺構出土品には、多くの創建瓦・補修瓦と平安時代前期の多彩な土器、施釉陶器、墨書土器も含まれており、「長岡寺」の姿の解明も期待されている。
【本堂・御像】
1973年に建立された本堂は、国宝の本尊を安置するため銅板葺、鉄筋コンクリート造の耐火を配慮した建物で、「宝物館」といった佇まい。普段は照明を消しているので「須弥壇手前にある照明のスイッチを入れてください」と案内された。
正面の厨子に安置されるのが本尊「如意輪観世音菩薩半跏像」。
<如意輪観世音菩薩半跏像 (国宝)>
文化庁の「国指定文化財等データベース」には、「木造菩薩半跏像 (伝如意輪観音)」(1957.02.19 国宝指定)、平安時代の作品とある。寺伝では 平安前期 (貞観時代) の作、木造素地、像高88.2cm。
最初に惹きつけられたのは顔の表現。伏し目がちの切れ長な目で、目尻はキリッと上がっている。きゅっと結んだ小さめの唇。そこからは厳しさと強い意志のようなものを感じる。瞳には黒曜石、白毫には水晶が嵌め込まれている。右足踏み下げの半跏像で、右手は与願印、左手は施無畏印を結ぶ。宝髻は複雑な結い方がされており、天冠台から少し前髪が見えているのはあまり拝見したことがない。
厚い胸板の引き締まった体躯。指先・爪先まで生身の人間のような表情があり、壁に飾られた写真でしか確認できないが、ゆったりと天衣を纏った背中の表現は秀逸。また渦文や翻波式衣文でなく、複雑に波打つような衣文の表現も独特。
榧の「一木造り」かと思ったが、そうでもないらしい。最近の調査によると、像のヒビ割れを防ぐために榧を縦半分に切ったものを用いているとのこと。木の芯の部分を避けるための工夫らしい。髪・唇・眼にわずかな彩色があるが、ほぼ素地。よく見れば台座の蓮肉部より下の部分には、彩色を施した四天王が認められる。こちらは後補のものか?右足踏み下げの像形や上半身がわずかに右に傾いていることなどから、三尊像の脇侍 (月光菩薩、虚空蔵菩薩など) ではないかと言われたりして、尊名・伝来ともに謎多きご本尊。
帰り際、照明を消し扉を開けてほの暗い堂内を振り返った時。外部の自然光を浴びたお顔の表情が、ふっと変化しているのに気付く。それまでの凛々しい表情から、柔和で優しいそれへと印象が変わった。なんとも不思議で魅力的な菩薩像だ。
<薬師瑠璃光如来 (重文)>
本尊向かって右手の脇侍。平安後期 (藤原時代) 作、木造漆箔、像高110.3cm。
右手は施無畏印、左手には薬壺を持つ。優しく静かな表情で、衣文は襞が少なく彫りも浅い。彩色を施されていた痕跡があるが、現在はかなり剥落している。全体的にほっそりとして簡素な印象を受けるが、放光形光背は豪華。
<聖徳太子二歳像 (京都府指定文化財)>
本尊向かって左手の脇侍。鎌倉時代作。
上半身裸で赤い袴を着け、厳かな様子で合掌をする立像。聖徳太子が2歳の春、東方に向かい合掌し「南無仏」と唱えた。すると手の間に釈迦の舎利が現れたという言い伝えに基づき造られた像。こうした「南無仏太子立像」は、鎌倉時代には数十体造られたという。
願徳寺の像は、造立主が判明している珍しいもの。聖徳太子像を解体修理した際、像内部に多数の墨書があり、頭部に阿弥陀如来像が納められているのが発見されたという。墨書より「時宗の開祖 一遍上人 (1239-1289) の弟である聖戒 (しょうかい) が、一遍上人と父 如仏の菩提を弔うために造立した」ことが判明。ただ、なぜ一遍上人ゆかりの像が願徳寺に安置されているのかについては、やはり不詳。
須弥壇には他にも多くの仏像・尊像が安置。須弥壇奥の両脇は上下二段に仕切られ、向かって左上段には慈覚大師 (円仁) 像、下段には元三大師 (慈恵大師良源)、弁財天、毘沙門天 (厨子入) が安置されている。一方右上段には不動明王、下段には「宝菩提院」を建立した忠快、天台宗開祖の伝教大師最澄、さらには真言宗開祖の弘法大師空海の尊像が所狭しと安置されている。宗派を超えた像は、「寶菩提院 願徳寺」が辿った苦難の長い歴史を如実に物語っている、私にはそう思えた。
庫裡前には小さな枯山水式庭園があり、拝観に伺った折には紫陽花がきれいに咲いていた。遠くの山並みを見晴るかしていると、何ともゆったりとした気持ちになる静かなお寺。
〔御詠歌〕 み佛の 華の林に 遊ばんと 願う心ぞ 寶菩提なる
<参考資料>
・ 願徳寺 拝観の栞
・ 『宝菩提院廃寺の湯屋遺構』 向日市埋蔵文化財センター 「長岡京跡右京第755・762次調査現地説明会資料」, 2003.2.22
・ 『向日丘陵の古代寺院-長岡寺と秦氏の寺院-』 向日市埋蔵文化財センター イベント情報 「令和3年度調査研究成果展」
・ 『『阿娑縛抄』研究史稿』 岡田 健太 著 (「國文學」 91 関西大学国文学会, 2007.3.1, p155–165)
・ 『国宝を有し、京都で一番小さい寺院「宝菩提院願徳寺」を訪ねる』 (いろり端 探訪「1200年の魅力交流」, 伝教大師最澄1200年魅力交流委員会)
・ 『宝菩提院菩薩半跏像の研究』 福田 祐子 著 (京都市立芸術大学 「受賞作品アーカイブ 」 [論文要旨] 2005年度)