北白川石仏「子安観世音」(左京区北白川)

町のお地蔵さん

 北白川バス停近く、今出川通と斜めに交わる 「志賀越道 (しがごえみち)との交差点に、驚くほどに大きな石仏が坐す。お堂に窮屈そうに納まっていらっしゃるが、隣に掲げられる駒札を読めば、なかなか由緒ある「阿弥陀さま」のようだ。江戸時代後期に秋里籬島が著した 『拾遺都名所図会』 には、「北白河の石仏は希代の大像にしていづれの代の作といふ事をしらず」と記され、田畑の脇にどっしりと坐す石仏を街道を行く人々が珍しそうに眺めている風景が描かれている。近くには石灯籠や絵馬掛けもある。
 駒札によれば、鎌倉時代に造像された由。白川の山中では良質な花崗岩が採取されるので、北白川の石工の人が造像したと思われる。地元では古来より「子安観世音」として親しまれ、「志賀越道」を通って洛中に花売りに行く白川女達は、必ず花を供えて商いに向かったという。
 (御詠歌) みちばたの 川にはさまれ 東むき あさひをうける 子安観音  (詠人不知)

<太閤地蔵>
 この石仏は別名 「太閤地蔵」 とも言われ、次のような伝説が残る。

 安土桃山時代のこと。太閤秀吉が北白川の里を訪れた時、この石仏を見てたいそう気に入り聚楽第に移したという。秀吉は毎日のように石仏を眺めては喜んでいたが、夜になると地響きのようなうめき声が聞こえるようになった。不審に思い確かめてみると、石仏が「白川に帰りたい」と泣いていたので、元の場所に戻したとのこと。それ以来「太閤地蔵」とか「夜泣き地蔵」とも呼ばれるようになったという。

 石仏をよく観察してみると、頭部や背部など所々に損傷があり、単なる経年劣化だけではないような …。実はこの場所が交差点のため、これまで2回大きな事故に遭っているそうだ。1度はトラックがぶつかり首が折れてしまったので、中に棒を入れてセメントで補修されたという。ただこれまでに大きな人身事故は起きていないということで、町内の人々からは今も信仰されている大切な石仏のようだ。
 また「子安観世音」と隣り合う祠には、20体近くはあろうかと思われる石仏が所狭しと祀られている。今出川通の拡幅・整備工事の折に掘り出されたものなのだろうか。京都の街を歩いていると、ここかしこにこうした風景を目にする。

<志賀越道>
 京の七口の一つで、荒神口から北白川・山中村 (現・滋賀県大津市山中町) を経て志賀峠を越え、志賀里に至る古道。時代によっては「山中越」「今路越 (いまみちごえ)」とも呼ばれる。古くは 『日本後紀』 に、嵯峨天皇が「志賀山越道」を通って志賀の唐崎に行幸したとあり、重要な道であったとされる。
 「志賀の山越」は近江の歌枕のひとつとしても知られ、紀貫之は「梓弓 春の山辺を 越えくれば みちもさりあへず 花ぞ散りける」(『古今和歌集』巻二:春下 115)の和歌の [詞書] に、「しかの山こえに女のおほくあへりけるによみてつかはしける」と記している。
 667 (天智朝6) 年、「近江大津京遷都」を行った天智天皇は、翌年に大津京鎮護のため「崇福寺」を建立 (現在は国指定史跡「崇福寺」跡)。平安中期、政情が不安定となり、都では疫病の流行や地震・戦乱などの災禍が続いたことから貴族を中心として末法思想が広がるとともに「弥勒信仰」が盛んになった。そうした状況下で「弥勒菩薩」を本尊とする「崇福寺」まで「志賀の山越」をして参詣する女性も多かったようで、紀貫之が出会ったのはそうした人々だったのだろう。
 このように賑わっていた 「志賀越道」 だが、江戸時代に入ると「逢坂越え (東海道)」が整備されたため重要性が低下。江戸後期には、商人の「抜け荷」道として使われるようになり、次第に廃れていった。

<参考資料>
・ 「拾遺都名所図会データベース」巻之二  国際日本文化研究センター
・ 日文研データベース 『古今集』 国際日本文化研究センター        ・  「ハンケイ500m」vol.039, 2017 p.16
・ 『古今和歌集』 小島憲之, 新井栄蔵 校注 (新日本古典文学大系 5) 岩波書店, 1989
・ 『崇福寺跡』 滋賀・びわ湖観光情報, びわこビジターズビューロー
・『京都北山の昔話』 第78話  「古道・志賀山越えの道」について
・『志賀越道』  月瀬まい 著 (京都大学歴史研究会 website, 2015.2.13)