観音寺(北野東向観音寺) (上京区観音寺門前町)
北野天満宮の大きな一の鳥居をくぐって参道を少し進むと、二の鳥居の西側にお寺の山門が見える。門には「朝日山 北野東向観音寺」とあり、「天満宮御本地佛 十一面観世音菩薩」と刻まれた石碑が建つ。
寺伝によれば開山は延暦25年(806)。桓武天皇の勅により藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立し、当初は「朝日寺」と呼ばれる寺院だったとのこと。
その後の天暦元年(947)、朝日寺の僧、最鎮らが天満宮を建立して太宰府より菅原道真の霊を遷し祀る。応和元年(961)には筑紫の観世音寺より道真自作という十一面観世音菩薩を請来し安置。応長元年(1311)、中興の祖・無人如導宗師が、筑紫の観世音寺に擬して名称を「観世音寺」と改め、「天満宮御本地仏」「北野神宮寺」または「奥之院」とも称した。
元は東向・西向(一夜松の観世音菩薩安置と伝える)二つの堂宇があったようだが、応仁・文明の乱や火災等で西向きは廃絶。東向観音堂のみ再建。慶長12年(1607)に豊臣秀頼が北野天満宮の復興にあわせて観音寺も整備し、元禄7年(1694)には礼堂と造合(つくりあい)が増築された。江戸時代には一條家の祈願所となり、一條家出身で明治天皇の皇后となった昭憲皇太后が、一時期当寺で勉学に励んだと言う。また寺名も江戸後期頃に「観音寺」に改まる。
明治維新後は、廃仏毀釈によって北野天満宮の仏教建造物の多くが破却される中、東向観音だけが残る。その後北野天満宮より独立し、現在は真言宗泉涌寺派、準別格本山。
江戸時代後期の『都名所図会』には
「東向観音(ひがしむきくわんをん) は忌明塔の西側にあり
本尊は梅桜の二樹を以て菅神御手づからきざませ給ふ十一面観世音なり」
と紹介されており、本尊の十一面観世音菩薩は秘仏。25年に一度の御年祭(北野天満宮の式年祭「半萬燈祭」と同じ?)の時にだけ御開帳され、次は「千百二十五年祭」の令和9年(2027)になる。
東向きの山門を入ると正面に造合(つくりあい)でつながれた本堂と礼堂がある。本堂と礼堂は、17世紀前期および元禄期の建築様式を留めている質の高い建築物として京都市の指定有形文化財になっている。右手には「白衣観音堂」、左手後方を見れば「行者堂」。さらに本堂南側の境内には「岩雲弁財天」「鐘楼」「伴氏廟」そして「土蜘蛛塚」などが所狭しと配置され、このお寺の歴史の深さを感じる。
【白衣観音堂】
本尊の「高王白衣観世音菩薩」は、明暦元年(1655)に明の陳元贇(ちんげんびん)禅師より寄進された観音像で、漢の高王が祈願して子を授かったものと伝えられる。また、一條家大政所より元禄年間に寄進された「西国三十三所観音像」33体が祀られ、「御厨子」は徳川3代将軍・家光の長女の千代姫により寄進されたものらしい。
【岩雲弁財天】
観音寺の鎮守神で、豊臣秀頼が本堂を再建した時に奉納された弁財天。
【伴氏廟】
南側の庭園奥に「伴氏廟」と刻まれた大きな石碑があり、隣には4メートルを超えるという巨大な石造五輪塔が建っている。菅原道真の母方・伴氏の墓(廟)と伝わり、元は北野天満宮の三の鳥居西側(現在の伴氏社の場所)に位置し、「洛中洛外図」などにも描かれているとのこと。明治の廃仏毀釈で当寺に移されてきた。またこの五輪塔は「忌明塔(きあけのとう/いみあけのとう)」とも呼ばれ、室町時代には四十九日の忌明けに参拝する慣わしがあったと伝えられる。
【土蜘蛛塚】
<伝承「土蜘蛛」> 平安時代、大江山の鬼退治でも有名な源頼光が原因不明の病いに罹る。ある夜夢枕に怪僧が現れ、蜘蛛のように地を這い、口から糸を吐き頼光に襲いかかってきた。頼光が名刀「膝切(蜘蛛切)」で立ち向かうと僧は傷を負って消えてしまう。騒ぎに駆け付けた四天王(渡辺綱、卜部季武、碓井貞光、坂田金時)らが僧の残した血痕を辿っていくと大きな石の所で途絶えていた。石を除けると蜘蛛の精が現れて襲いかかってきたが、激闘の末に頼光らによって退治された。
土蜘蛛が逃げ込んだ大石は、頼光の館があった堀川一条付近から西に約一キロの七本松一条、清和院西側にあったとされている。江戸時代中期の『拾遺都名所図会』では巨大な石が描かれて「蜘蛛塚」と紹介されている。明治に入ると「蜘蛛塚」は取り壊され、大石の下から石仏、墓標、石塔、破損した石灯籠などが出土。発掘した人が出てきた火袋(石灯籠の笠と受け石の灯の入る部分)を家に持ち帰り庭に置いて飾ると、家業が傾き家を売却。次にその石灯籠を手に入れた人の家もつぶれ、土蜘蛛の呪いと恐れられた。1924年、残っていた石灯籠の火袋部分が観音寺に移されたとのこと。
南側庭園の東寄りに「土蜘蛛塚」の小さな祠があり、その石灯籠の火袋部分が祀られている。