六波羅蜜寺 (東山区五条通大和大路上ル東)

京都・寺社

六波羅蜜寺 門東大路通の清水道交差点を松原通沿いに西に進むこと5分ほど。六道之辻を左折すればすぐ右手に六波羅蜜寺の門が見えてくる。住宅地ながら観光客も多い。
南北朝時代の貞治2年(1363)に修営という本堂は、開創1000年を記念して昭和44年(1969)に解体修理が行われ、丹の色鮮やかに蟇股などの装飾も美しい。だがその歴史は古く、平安時代にまで遡る。

 

【歴 史】
六波羅蜜寺 本堂 今は観光客で賑わうこの辺りも平安時代初期には、愛宕郡鳥辺野と呼ばれる葬送の地で、当時は地蔵菩薩を安置する小堂宇があったらしい。天暦5年(951)、第60代・醍醐天皇の第2皇子または第54代・仁明天皇皇子の常康親王の子とも言われる光勝・空也上人(903-972)は、当時流行していた悪疫退散のために自刻の十一面観世音像を車に安置して市中を曳き廻したという。上人は病人には茶を授け、歓喜踊躍(かんきゆやく)しながら念仏を唱えて病魔を鎮めたとされる。この時のお茶(小梅干と結昆布を入れたお茶)は、「皇服茶」として現在も六波羅蜜寺で毎年正月三ヶ日に授与されている。
 応和3年(963)、空也上人は600巻の金字大般若経の写経を完成させて、鴨川東岸に観世音菩薩を本尊とした仮仏殿を建立。これが寺の始まりとされ、「六原の寺」と呼ばれたらしい。上人没後は弟子・中信が、「六原」の地名と、仏教用語の六波羅蜜(布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧)から「六波羅蜜寺」と改名し、天台別院になった。
 平安末期には、平忠盛やその子・清盛等平家一門の屋敷が付近に多く建てられて「六波羅殿」と呼ばれて賑わいを見せたが、平家没落の時に兵火を受けて類焼。本堂のみ残存。鎌倉時代の承久の乱(1221年)後には、北条泰時・時房が六波羅探題を近くに設置(境内に「此附近平氏六波羅探題址」の碑が立つ)。しかし南北朝時代になると元弘の乱で探題は焼失。さらに室町時代の応仁・文明の乱(1467-1477)で、再び本堂以外が焼失してしまう。平清盛塚
 創建以来、度重なる戦の巻き添えとなった六波羅蜜寺だが、近世に入って豊臣秀吉や徳川家康から寺領を安堵され次第に堂宇も整っていったようだ。また1595年頃、天台別院より新義真言宗本山智積院に属し、真言宗智山派となった。

【宝物館】
 長い歴史を持つ六波羅蜜寺は、平安・鎌倉期の木像彫刻や有形民俗文化財を多く有し、宝物館でそれらを拝見できる。
「十一面観音立像」(国宝)  本尊の木像十一面観音立像は本堂に安置されており秘仏。文化遺産データベースによれば、源為憲の『空也誄(くうやるい)』に記載のある「金色一丈観音像一体」にあたり、天暦5年(951)の造立で西光寺(六波羅蜜寺の前身)に安置されていたとされる。12年に1度の辰年にのみ開帳される。
「空也上人立像」(重文)  口から六体の阿弥陀仏が現れている独特の造形は、かつて歴史の教科書で見たまさにそれ。右手に撞木、左手に鹿の杖を持った草鞋姿の痩せ細った遊行僧は空也そのものか…。鎌倉時代の仏師・運慶の四男康勝の作。
「地蔵菩薩立像」(重文)  平安時代後期の仏師・定朝の初期の作とのこと。かつて六波羅地蔵堂の本尊だった。右手は与願印で、左手に頭髪を垂らしている珍しい仏像で「鬘(かつら)掛地蔵」とも呼ばれる。また古い伝説より「山送りの地蔵」と呼ばれることもあるらしい。施された極彩色の截金文様がまだよく残っており、穏やかな表情のお地蔵様。
「地蔵菩薩坐像」(重文)  鎌倉時代、運慶の作。運慶一族の菩提寺十輪院(八条高倉)の本尊だったが、後に六波羅蜜寺に遷されたもの。運慶が夢で見た本物の地蔵菩薩を造物したと伝えられ、一名「夢見地蔵」とも言う。蓮華座に結跏趺坐する像の面相はすっきりと整っている。
「平清盛坐像」(重文)  鎌倉時代前期の慶派仏師作という。最古の肖像とも。経巻を持つ僧形の清盛像からは、『平家物語』から連想される傲慢さは伝わってこない。
「運慶坐像」「湛慶坐像」(重文)  鎌倉時代の慶派仏師作。元は運慶一族菩提寺の十輪院に祀られていたもの。二体とも頭を丸め、手には数珠を持つ。とても写実的に表現されている。

【弁財天】銭洗弁財天他
 境内南にある「弁天堂」には、六波羅弁財天が祀られている。元は平安時代の保元の乱で讃岐に流されて亡くなった崇徳天皇が、夢告により造仏したものを、天皇が寵愛した阿波内侍が屋敷を寺院として祀っていたと伝えられる。明治の廃仏毀釈で廃寺となったため、弁財天は六波羅蜜寺に遷されたとのこと。日本最古という都七福神めぐりの一尊。
 また境内北側にあるのが「銭洗弁財天堂」。お金を「銭洗水」で洗って持ち帰り、大切に保管しておくと金運がつくという謂れのある銭洗弁財天が祀られている。

【空也踊躍念仏(くうやゆやくねんぶつ)】
 開祖空也上人が、都に流行っていた疫病退散のために念仏踊を行い、病魔を鎮めたとされる「秘法空也踊躍念仏」は、弾圧の時代をくぐり抜けて現在に伝わる。毎年12月13日から除夜にかけて行われる「空也踊躍念仏厳修」がそれで、独特の念仏と不思議な体の動き(踊り)が興味深い。重要無形民俗文化財となっている。

 ひとたびも 南無阿弥陀仏と いふ人の はちすの上に のぼらぬはなし    空也 (拾遺抄)