史跡船岡山 (北区紫野北舟岡町)
船岡山は、平安京造都にあたって占された地相「四神相応之地」の北の「玄武」、いわゆる大岩にあたるとされ、大徳寺の南側、西北西から東南東の方向にかけて横たわる小高い山。地形が船に似ていることから、古来より船岡と呼ばれているようだ。山の北側は船岡山公園で、南側には織田信長を祀る「建勲神社」がある。
バスの走る北大路通は賑やかだが、船岡山周辺は閑静な住宅街といった風情。今回は建勲神社側から山の頂上へ進み、そして公園側へ下りてみることに。建勲神社の大鳥居をくぐると、本殿は見上げるように高い所にある。急な石段をくねくねといくつも上ってやっと本殿前に到着。一息ついて振り返ると、東山の山々が街並みの背景にくっきりと見える。一際高く聳えるのは「お山・比叡山」。
ところで、歩いていてふと道にゴツゴツとした岩盤が露出していることに気づいた。実は船岡山は、チャートと呼ばれる堆積岩の岩盤でできているらしい。この岩盤は、丹波山地から金閣寺辺りまで続くものが一旦地下に入り、船岡山で再び地上に盛り上がったとのこと。建勲神社の崖のようになった所では、その「層状チャート」がはっきりと見える。
平安朝時代の船岡山は、景勝の地として大宮人の散策の地であったようだ。清少納言は『枕草子』で「岡は、船岡…」とまず最初に挙げている。また『今昔物語』には、円融天皇が退位後に子の日の遊び(正月最初の子(ね)の日に野に出て小松を根から引き抜いて、健康と長寿を祈る行事)のために、船岡山に行った際の「歌詠みの席」での話がある。この時に院から召された歌詠みの一人が清原元輔(清少納言の父)で、「船岡に 若菜つみつつ 君がため 子の日の松の 千世をおくらむ」の歌を残している。
平安末期の保元の乱(1156年)(鳥羽法皇の死をきっかけとして起きた崇徳上皇と後白河天皇の皇位継承争い)では、敗れた上皇方の源為義とその子供たちが船岡山で処刑されたと伝わる。さらに室町時代の応仁・文明の乱(1467~1477年)の時には、船岡山に西軍の船岡山城が築かれて陣地となった。それ以降、船岡山周辺一帯は西陣の名で呼ばれている。一方、船岡山西麓から紙屋川にいたる一帯は、平安時代より「鳥部野」や「化野」とともに葬送地「蓮台野」として知られていた。近くにはその歴史を物語る上品蓮台寺や、後冷泉天皇や近衛天皇の火葬塚などがある。平安末期の歌人・西行は 露と消えば 蓮台野にを 送りおけ 願ふ心を 名にあらはさむ (山家集) と詠む。
船岡山は遥か古より京都の人々の営みを見つめ続けている山なんだ…。