梅宮大社 (1) (右京区梅津フケノ川町)
梅宮大社へは、阪急嵐山線の「松尾大社」駅から四条通りを東に15分ばかり歩いて行くと、通り沿いに「梅宮大社参道」の石標がある。四条通りを北に入るとまず目に入るのが石の鳥居、さらにその奥には大きな朱色の鳥居が建っている。参拝者はさらに立派な楼門を通って境内に入ることになる。楼門(随身門)の手前右手には、「梅宮日本第一 酒造之祖神 安産守護神」の石柱。昨今では「猫のお寺」としても知られているが、訪れた時も随身門近くで猫が散歩中だった。
【歴 史】
創建の詳細や変遷については不明な点も多いようだが、『梅宮大社由緒略記』によれば、1300年ほど前(奈良時代)に、橘諸兄の母 県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)(藤原不比等の妻で光明皇后の母)が、山城国相楽郡井手庄 (現・京都府綴喜郡井手町付近) に橘氏一門の氏神として祀ったのが始まりと伝えられる。その後、光明皇后が度々所在を遷すが、平安時代の仁明天皇(在位833~850) の頃に、檀林皇后(嵯峨天皇の皇后 橘嘉智子)が橘氏の氏神として現社地に社殿造営。これが「梅宮祭」の起源という。
江戸時代、元禄11(1698)年の火災で主要社殿が焼失。徳川綱吉の命により元禄13(1700)年に再建されたという。その後も台風で拝殿と随身門が大破し、江戸後期に再造営される。
単立神社。旧称は「梅宮神社」、神紋は「橘」。
石造りの一の鳥居をくぐると、次には朱色の大鳥居。そして寺院を思わせるようなどっしりとして立派な随身門が、参詣者を迎えてくれる。境内に入るとまず拝殿があり、そしてその奥に唐破風造りの拝所を設けた本殿の檜皮葺屋根が見える。境内の東側には、本殿を取り囲む広い庭園「神苑」の入り口がある。
【随身門(楼門)】
「随身門(ずいじんもん)」とは神社を守護する門守神(かどもりのかみ)を安置した神門。梅宮大社のそれは、三間一戸の楼門で、入母屋造、屋根は本瓦葺。門の左右には随身として「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」「奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)」の二神像が安置されている。文政11(1828)年頃に再建されたものらしく、京都府登録文化財に指定されている。酒造の神を祭神とする神社らしく、楼門上層部にはたくさんの菰樽が所狭しと並べられている。
【本 殿】
唐破風造りの立派な拝所の奥には、三間社流造、檜皮葺屋根の本殿が見える。元禄13(1700)年の造営で、京都府登録文化財。
祭神は酒解神(さかとけのかみ)[大山祇神(おおやまずみのかみ)]、酒解子神(さかとけこのかみ)[木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)]、大若子神(おおわくこのかみ)[瓊々杵尊(ににぎのみこと)]、小若子神(こわくこのかみ)[彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)]の四柱。
近くの松尾大社も酒造の神として有名だが、その祭神は「大山咋神(おおやまぐいのかみ)」で、梅宮大社とは異なる。加藤百一氏によると、江戸時代の神道書『神道名目録聚抄』には「按ニ酒屋の輩 松尾神社ヲ以 酒ノ守護神トス。イマダ其ノ由ヲ知ラズ。酒解神・酒解子ノ神ハ 梅宮ノ神ナリ。」と記されているようで、酒造の神を祭る梅宮大社を高く評価しているようにも窺える。
[またげ石・熊野影向石]
本殿の東側に、細長い石の上に丸い石が二つ並べられた「またげ石」がある。相殿の祭神の一柱である檀林皇后がこの石をまたいだところ、皇子(後の仁明天皇)を授かったと伝えられ、以来血脈相続の石として信仰されているとのこと。また「産砂(ウブスナ)」という砂を用いた少し変わった安産守りが授与されている。
本殿西側には、「三石」または「熊野影向石」と称される石が祀られている。紀州熊野より3羽の烏が飛んできて石になったという伝説があるようだ。
【若宮社・護王社】
本殿向かって右側には、摂社「若宮社」がある。祭神は橘氏の始祖である橘諸兄。そして向かって左側に鎮座するのが「護王社」。祭神は橘氏公と橘逸勢。橘逸勢と相殿に祭られる嵯峨天皇は、弘法大師とともに「三筆」と称される能書家であり、また橘氏公が橘氏の大学別曹である橘学館院の創建者であることから、梅宮大社は学業成就守護の神としても信仰されている。どちらの社殿も元禄13(1700)年の造営で、京都府登録文化財に登録されている。
<参考資料>
・『梅宮大社由緒略記』
・『酒神と神社 (1)』 加藤百一 著(協和醗酵工業(株))(日本釀造協會雜誌, 1981)