観空寺 (右京区嵯峨観空寺久保殿町)

京都・寺社

大覚寺前の道を西に10分程歩いて行くと、道が右手に曲がる所に「観空寺観音堂」の案内板と「観空寺参道」の石柱がある。左手南側には田畑が広がり、遠くには愛宕山から小倉山にかけての山並み。案内に従って畑の横の小径を進んで行くと、住宅の影に隠れるように小さな堂宇が見えた。隣には地区の集会所が建てられている。

【歴 史】
観空寺観音堂『日本三代実録』巻18の貞観12年8月26日条に「以山城國葛野郡觀空寺預之定額。勅。觀空寺者。嵯峨太上天皇創建。宣以其後親王源氏爲檀越。永爲恒例。」と記されていることから、貞観12 (870) 年にはすでにこの地にあったようだ。また嵯峨天皇創建であれば、天皇は承和9 (842) 年に崩御しているので、創建はそれ以前に遡るのだろう。
また天長5 (828) 年成立の『山城国葛野郡班田図』では、「栗原寺」と記載されていることから、「観空寺」は「栗原寺」の別名か、あるいは定額寺になったときに改名されたのではと考えられているらしい。
中世以降は大覚寺支配下となるが荒廃。慶長年間に後水尾天皇が観音菩薩を安置し再興するが、その後再び荒廃が続いて大覚寺境外仏堂となる。

洛西三十三所札所 扁額小さな瓦葺きの堂宇正面に「十一面観世音菩薩」と書かれた赤い提灯。本尊は行基作と伝わる十一面観音だが、普段は扉は閉じられている。北側にある集会所とつながっているようなので、何らかの行事の時には開けられるのかもしれない。
軒先を見上げると、「洛西三十三所 第十八番 観空寺」の扁額。そこには次のご詠歌。
  おしなへて むなしき空と 思ひしに 藤さきぬれは 紫の雲
平安末期から鎌倉初期にかけての天台僧・慈円の和歌。『新古今和歌集』巻20 釈教に撰されており、[詞書]は (観音経)[普門品 心念不空過]。観音堂にふさわしいご詠歌。
地蔵堂堂宇手前には立派な石碑があるが、残念ながら内容はほとんど読めない。南側には地蔵堂もあり、今は地区の人々の信仰心によって支えられているお寺のようだ。

かつての観空寺の寺域の大きさを表すように、付近には「観空寺明水町」「観空寺谷町」「観空寺岡崎町」のように「観空寺」を付した地名が残っている。今が盛りの新しい寺院があれば、昔の光をわずかに残すお寺もある。  栄枯盛衰は世の習い…。

 

小倉山方面の山並み いにしえの ほとけも憩う 蓮華草  (畦の花)

<参考資料>
・「京都市内遺跡発掘調査報告」 平成26年度 京都市文化市民局
・『山城国葛野郡班田図に描かれた古代景観』 渡邊秀一著 佛教大学 (文学部論集 第86号)