古知谷 阿彌陀寺 (左京区大原古知平町)
古知谷阿彌陀寺へは、大原バス停からさらに「小出石」行バスに乗り換え、鯖街道(旧道) 沿いの「古知谷」で下車。数分歩くと山門(龍宮門) が見えてくる。山門への石段右手には「こち谷 光明山」、そして左手に「三昧發得 兩大得 大往生 道場」と刻まれた石碑。山門前には「弾誓仏一流本山」の石柱。本堂は焼杉山の中腹あたりにあり、山門から急な坂道をさらに20分ほど歩かなければならない。
【歴 史】
「光明山 法国院 阿彌陀寺」は、浄土宗 一流本山の寺院。「一流本山」の所以は、本尊を阿弥陀如来とともに開基・弾誓(たんぜい)上人とするため。
天文21(1552)年、尾張国海辺村に生まれた弾誓上人は、9歳で出家(この時に名を弾誓と改める)。諸国を遊行した後、慶長2(1597)年に佐渡で「生身の阿弥陀仏」を拝し、「十方西清王法国光明満正弾誓阿弥陀仏」となって『弾誓経』六巻を説法する。その後も甲斐、信濃などで教化を続け、再び京に戻った時に古知谷に瑞雲がたなびくのを見て、この地を最後の修行地と定めた。慶長14(1609)年、自身の頭髪を植えた本尊を刻み、如法念佛の道場を建立。62歳で入寂するが、その遺骸は石棺に納められて本堂脇の巌窟に即身仏として安置されている。
長髪、草衣、木食という弾誓の僧風は澄禅・念光らに受け継がれる。近江国日野生まれの澄禅(ちょうぜん)は、大原の山に籠って数十年苦行した後、古知谷の山の岩穴で入定。
参道は深い森の中を縫うようにして参拝者を本堂に導く。参道脇には苔むした石碑や石像が点在し、谷を流れる清水のせせらぎが心を落ち着かせてくれる。本堂下の古い石段の傍らには、京都市の天然記念物に指定されている樹齢800年というカエデの古木。山には300本近いカエデがあるとのことで、最近では紅葉の名所としても有名で、秋には観光客で賑わうらしい。拝観受付に向かう新しい石段横には、カメラマン向けの注意書き。何とも情けなく複雑な気持ちになる。
【本 堂】
本堂は、山肌を石垣で固めた所にある境内のほぼ中央に位置する。堂内中央に「弾誓上人 植髪の尊像」と
される阿弥陀如来立像が安置されている。弾誓上人自らが草刈り鎌で刻み、自身の頭髪を植えたという本尊で、現在もそれは両耳元に残っているとのこと。そして向かって右手には、もう一つの本尊である阿弥陀如来坐像。鎌倉時代の作とされ(作者不詳)、重要文化財に指定されている。どっしりとしたシンプルな造形だが、金色のお顔は穏やかな表情。
本堂前には白砂の広がるすっきりとしたお庭が設けられ、きっと秋には紅葉の赤と見事にマッチするのだろう。本堂に座していると、時折聞こえてくる鳥の声と樹々の間を通り抜ける風の音以外に静寂を破るものは無く、本当に心が落ち着く。街中のお寺では得られない静けさだ。
お庭から左手に視線を移すと、切り立った崖のようになった場所のすぐ下には重機。台風や大雨などの自然災害で、山がかなり損壊しているようだ。その近くには鐘楼と六地蔵の石像があるが、立ち入り禁止になっている。鐘楼の周りには墓石や石仏が無数に安置され、本堂近くには一際目立つ石造りの菩薩(?)立像がある。苔むした台座がその歴史を物語るようだ。
また石垣の上にそそり立つようにある茶室「瑞雲閣」は、木造 桁行二間の懸造り。茶室近くからの眺望はなかなかのもの。
【弾誓上人石廟・宝物館】
書院を出て渡り廊下を進むと、「弾誓上人石廟」の案内のある小堂。格天井に白壁、祭壇の置かれたその室の奥に、開基・弾誓上人のミイラ佛が眠る石廟がある。大きく掘られた巌窟の中には鍵の掛けられた石棺が安置され、ミイラ佛はこの中に収められているとのこと。石廟の中は、自然の冷気でヒンヤリとしている。
石廟と本堂の間には、寺宝が収蔵されている「宝物館」。阿彌陀寺は安永年間(1772-80)に、入江御所より掛幡、打敷、閑院宮より掛幡、御追資料を寄進されたのを始めとして、現在に至るまで皇族諸家との縁故が深く、「宝物館」では弾誓上人常用の品々とともに皇族諸家からの賜り物が展示されている。
拝観受付左手の少し小高くなった所では、大日如来を中心とした五智如来の石仏が参拝に訪れる人々を見守っている。そしてその西側奥の山に近い所には、二つの建物が見える。「光明殿」そして「来迎殿」と呼ばれる懸造りのお堂らしいが、自然の崖を利用しているため現在は立ち入り禁止になっている。
5月には京都府の準絶滅危惧種に指定されている九輪草が、書院の前庭に咲くらしい。「九輪草」はサクラソウの一種で、名前の由来は、花の咲き方が仏閣の屋根にある「九輪」に似ているからとか。古知谷阿彌陀寺にぴったりの花。またいつか訪れよう。
奥山へ 阿彌陀に会いに 苔の道 滝のツバキは 手向けの花か (畦の花)
<参考資料>
・古知谷 阿彌陀寺 拝観の栞 ・WEB版新纂浄土宗大辞典